60 天然の要塞と人工の要塞 普代村の奇跡

「松島はもう観光再開しているみたいだぜ」
松島は日本三景と呼ばれる観光地である。三景にそれぞれ割り当てられる「雪月花」の「月」を担当する。
やや家屋には浸水のあとの泥の線があるが窓などが割れていないところを見ると、緩やかに上がって緩やかに下がった程度であると言える。

松島町

死者:2
行方不明者:0
建物の被害:0

(宮城県発表)

対面にある東松島町は苛烈な破壊を受けている。
そこから見ると松島はかなり平和なようだ。

少々距離的に飛ぶが、車を走らせていると普代村も目につく。
「まるで被害がないな」
「多少漁港の建物が破壊されているけど、他の場所に比べれば何も無かったかのようだね」

 

fudai_matsushima_edited-1

 

普代村と呼ばれる場所は、岩手県の北の北にある非常に小さい町だ。人口も約3000人と少ない。

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普代村を守る、巨大な壁

岩手県普代村

死者:0
行方不明者:1
建物の被害:0

(岩手県発表)

本震災で例外的にこの2つの町はほとんど被害がない。

松島は海底の地形と天然の島々が津波を防いだと言われている。
観光客は速やかに避難をしたという。観光客は「あずかりもの」なので避難させる意識も高かったのかもしれない・・・

普代村は明治、昭和の大津波双方で壊滅している。地形は波を増幅させる三陸そのものだ。

世界最高の防波堤と言われていた釜石の防波堤が破壊され、津波太郎の万里の長城と言われた高さ10mの田老町防波堤も突破された。
(両方の防波堤は全く無力では無かったといわれてはいるが)防波堤よりも、高台移転、人間が逃げるというのに力を入れていこうという方向に傾いた。
田老町は明治三陸大津波で15mの津波に襲われているが、残念ながら参考にしたのは10mの津波であった昭和三陸大津波のようだ。

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釜石市近辺にある防波堤の一つ。助手席から撮影したので正確な位置がわからないが、かなり巨大な防波堤が木っ端みじんに粉砕されている。切り取られた階段が虚しい。

そんな中、この津波に耐えきった防潮堤と水門が普代村にある。
その高さは15m超という、類を見ないものだ。

この防潮堤を作った当時の村長は、明治の普代を襲った津波は15mあったという言い伝えを信じ、15m超の防潮堤を作るのに奔走したという。
「田老でも10mなのに、その15mという数字はどうにかなりませんか」
というやり取りがあったのは間違いない。村の中でも反対はあっただろう。

しかし村長は作った。そして耐えた。

普代村にとどまらず、三陸の英雄としてこの村長は高く評価されることになった。
噂によると村長の墓参りに訪れる人は後を絶たないという・・・・

一方これを知ると、じゃあなんで高い防潮堤を作らないのか、という声が聞こえてくる。

そちらは至極ごもっともであり、簡単に説明させていただく。
一度でも普代村を見ていただければわかるが、普代村は非常に小さい。防波堤の延長も非常にわずかで済んでいる。防潮堤は130m、水門は205mにすぎない。
田老は2.4kmであり、文字通りケタが違う。しかも、普代村と異なり、たとえば大船渡や宮古なら高さが40mが必要という結果が出るかも知れない。金額も兆に達するだろう。
その金を工面するのは難しい。高台移転の方が安い。真似しろとは一概に言えないのである。

松島はただ在るだけで津波を防いだ。紛れもない日本三景である。

そして普代村は一人の村長の執念で津波を返した。

私は周囲の反対という孤独の中15m超を譲らなかったであろう村長にこの言葉を思い出す。

「一頭のライオンが指揮する百頭の羊は、一頭の羊が指揮する百頭のライオンに勝つだろう」
カール・フォン・クラウゼヴィッツ 戦争論

59 復興イベント3

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中心が私なのは、同期で並ぶと身長が大きい者が真ん中というしきたりがあるらしいからだ(その時初めて知ったが)

手短に説明しておくと、応援団はその個体数も少なく、野球やサッカーと違い友人でやっていたという人も少ないので解りづらいとは思う。
しかしこれは津波と異なり、大体想像通りであっている。
廃団となった危険な応援団もあれば、安全な応援団もある。私が1年生の時に4年が「今後一切の暴力を禁ずる」といった穏健派であったため、平和な方だった。
こういった古風な格好をすると、ややお年を召した方々や、意外にも若い娘たちにも受けは良いのである。
チアリーダーは応援団員目当てで始めるといった理由がかなり多い。(残念ながら、他校の、とかが付いたりするわけだが・・・)

5人もいると3人と違い、太鼓と大団旗と呼ばれる巨大な旗を立てても人数が少なすぎないギリギリの人数である。
エールはなかなか好評だったらしく、地元ローカル新聞も大きい紙面で取り上げてくれたと言う事だ。どんな様子だったかの写真は無いわけだが・・・
復興グッズもお店の方々から戴いた。

有志たちを東京で下ろす。
彼らも昔に戻ったような錯覚に入ったようで、満足したようだ。

「本当にありがとう。感謝している」
「おお、また呼んでくれよ」
「おいおい本当かよ。なんか2週間後?も○○であるらしいけど。次は向かえにいけねーぞ」
「に、2週間後かよ」
そんなやり取りをする。

しかしというか、春から続く様々なイベントやら見舞金やらは着実に(もともと大して無いが・・・)貯金を圧迫するのである。

・・・新沼さん・・・市の○○が使いづらくてさ、どうにかして改善したいんだけど・・・
・・・○○使えばコンビニで全部終わりますよ。そんなに複雑にはならないはずです・・・
・・・本当か、助かるよ・・・予算○○円引っ張れるから、話が決まったら頼むよ・・・

・・・新沼君、今度、うちの大学で助教を探してるんだ。○○教授が年でおやめになるのでね・・准教授になれる人を探してるんだよ。やってみないかい・・・
・・・いいですね・・・
・・・じゃあちょっと説明するよ・・・

・・・10kg、痩せた・・みんな流されて、車を流されちゃってね。食事より先に車を買わなきゃいけない。田舎は仕事をするにも車が無いとね・・・

「・・・・・まあ、いいけど」
青くて巨大な財布でも買って完全に貯金リセットから始めることにしよう。
なんとなく、津波にのまれたって感じがするし・・・

自分の会社のため、給与支払い遅延がないというのが解っているため、大して恐ろしい事ではないのである。
もちろん津波を意識して高台に職場や家を置いたから守られるのは自然の流れなのだが、何となくこんな中ヌクヌクとしすぎているのも気持ち悪いものだ。

「一泊3000万の、高い部屋だったよ」
(引っ越した翌日に家を流された被災者の言葉。「被災地の本当の話をしよう」戸羽太(陸前高田市市長) ワニブックス)

そんな話を聞くとちょっと使いたくもなるだろ?

さて貯金でもしようか。

58 復興イベント2

結局有志は3名来てくれることとなった。1台生き残った自動車で送り迎えと東京を二往復することとする。
高速道路は被災者証明を使えるためタダであり、4桁という恐ろしく高かったガソリン代も元に戻った。
移動費はかなり安くなる。

高速道路はデコボコは治ったが、瓦礫の運搬のせいで落下物が多い。注意しないと踏み抜き、路肩に打ち落とされることとなる。

私は深々と礼をする。
「すまないね、来てくれて・・・・・」
同期は言う。
「おお、昔のようにやれるじゃねえか」
「俺たちもなんかしたいと思ってたんだよ」

東北自動車道のドライブ途中、同期は言う。

「なんかね、温度差を感じるんだよ。俺とお前の」
「それは仕方ないだろうね」
「いい方は悪いけど、もう落ち着いちゃってるとおもっちゃってるわけなんだよ」
「それも解る」

一つ角を曲がったら、別の世界だ。

現在、短い間だが空き家になっている社宅に案内すると、
その日の夜は瓦礫の片付けを手伝った家の床下に沈んでいたのをいただいたブランデーを開けた。
結構高級なブランデーで、雰囲気も盛り上がる。

「東京じゃ帰宅が大変だったくらいだからなあ」
「そうだな。しかし、少しは解ると思う。どうせ行く途中に通る・・・」

私は続ける。

「まだまだあのままだからな」

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– 23年 –

東日本大震災で宮城県のがれき量が1年間の一般廃棄物の23年分に相当すると、県が3月に発表。

翌日、向かう途中に夜の間は無事に見えたかの町を一周し、到着した石巻の門脇小学校周辺に車を走らせる。

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(画像は七ヶ浜)

「これは酷いな・・・・」
「今日は本当に来てくれてありがとう。合計5人なんて、そうそう無いよ。元気よくやろうか」
「おお・・・・」

57 復興イベント

春の終わりから夏にかけて、我々元応援団員が石巻の復興イベントにちょくちょく呼ばれるようになっていた。
瓦礫撤去をしているわけではない。ボランティアと言うべきか、そうではないのか・・・

東京と石巻は地味に距離がある。
交通費もまずまずのもので、見舞金やら何やらも元々目減りしつつあった貯金を圧迫する・・・
災害は金がかかると憶えたり。

今度は地元ローカル局の復興イベントにからみ、どうも元応援団がエールを送って欲しいということで要望があった。
意外と大きいイベントらしいので、その日動ける東北にいる元団員が私を含め2名という寂しさでは足りない。

これは遠くから応援を呼ぶしかない。私は今は遠い所に住んでいる応援団の元同期に連絡を取ることにした。
広島にいるはずの知人である。

電話をすると、すぐ繋がった。

「新沼?ひさしぶりだねー」
「おお、元気か久しぶりだな。ちょっと頼みたいことがあってね」
「大丈夫だった-?そっち。大変だったよねー」
「おお、大丈夫だったよ。広島は平和だっただろ?」
「俺も今広島だけど、そんとき東北にいたんよねー」
「おいおい、本当かよ。どこに居たんだ?」
「福島だねー」
「そっちの方が大丈夫かって感じだね。転勤かなんかか」
「うんー、逃げてきたんよ」
「そいつは広島に実家があってまだ良かったな・・・福島のどこに居たわけ?」

「原発」
「は?」

「原発作業員やっとるんよね-。避難の指示が出てね―」
「お、おお。出るね。出たね。大丈夫なわけ?体」
「検査したけど問題は無いって言われたんよねー」

(略)

「うんー、あいつらにはこないだもあったしねー、連絡取れるよー」
「ありがとう。本当に感謝してる。東京からかかる金は全て出すよ」
「本当にそう言っておくよ-?僕が行けんくて申し訳ないねー」
「よしよし。ありがとよ」

そこで電話を切った。

原発は近い。

56 宮城県石巻市 津波火災

津波が燃えないとは、誰もいっていない。

 

-平均2.9階と平均1.7階-

東日本大震災で生存した人間と死亡した人間が避難した高さ。
(ウェザーニューズ、今村文彦東北大教授、矢守克也京大教授らの共同調査による)

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石巻にある門脇小学校はかなり海抜の低い位置にあり、海を受け止めるような方向を向いて建っている。
ここは津波の際裏山である「日和山」への避難を徹底しており、その成果が出て即座に避難、児童全員が無事だった。

ところがその後、災害時の避難場所がこの小学校に指定されているため、住民の一部が避難してくる。
(明らかに海から高くないようにみえるが、本震災の前までは2階まで届くだけで信じがたい大津波であったろうし、自動車でも到達しやすく、学校は余震でも崩れづらい。
裏にある「日和山」は観光地だが広くはない道路の連続であり、家屋倒壊・渋滞を考えると避難場所としては逃げ辛いかもしれない・・・そういうところもあったのだろうか)

この小学校は結果的に屋上まで水を被ったということだが、3階もあるし、屋上もある。小学校は大量のガソリンやエンジンオイルで満たされた車両群、あるいは破壊されたタンクから漏れた油、
また破壊された家などの木材が波打ち際の漂流物のように溜まり着火、大火災となった。
避難していた人々は裏の山にさらに逃げる事を余儀なくされた。

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(写真は大槌町)

避難所、もしくは避難所となった建物が焼き尽くされた例は他にもたくさんあった。気仙沼、釜石、仙台・・・・・仙台は避難所となっていた小学校に火が到達する前に、ヘリコプターによる夜間消火で食い止めたという。

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(建物じゃなくとも爆発や焼き尽くされる怖れがあるから逃げろといわれたのを思い出すが・・・・)

下記は参考にした読売新聞の記事からの引用である。

(水面で)油をバーナーで熱しても炎上しなかったが、木材を浮かべると一変。まず木が燃え、その7~8分後、火は一気に水面に広がった。
「油がしみて燃え出した木材が『ろうそくの芯』になり、放射熱で周囲の油が70~100度の引火点を超えた」とみられる。

想像力を働かせて、勝手に津波の限界を決めずに高台へ逃げるのだが、あまりに速い津波に対しては車両や木材が打ち寄せられるようなところから出来るだけ離れる余裕があるかははっきり言って解らない。
津波避難ビルなどよりも出来れば、山が良いのだろうが・・・

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たわんだフレーム、焼けた時計。屋上までしっかりと火が届いているのが解る。

 

県警によると、門脇小学校周辺では55の焼死体が見つかったという。

(※参考 読売オンライン http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1326213628956_02/news/20120111-OYT8T00097.htm)

55 宮城県石巻市4 ボランティア駐屯所 石巻専修大学

「最初の10日間の記憶がほとんど無い。当時のメモを見ても思い出せない」

石巻専修大学の事務員。河北新報ニュースより。http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110901_01.htm)

私立石巻専修大学は東京に本校を持つ専修大学が石巻に建学したものだ。

(一応付け加えておくと、私の母校である。私が学校に居る間、大学名を明らかにしつつテレビに幾度も出て視聴率をかなり稼いだことにより広告効果をもたらしたらしく、卒業生の中でもまだ教職員に憶えられているほうである・・・)

震災の影響でによる収入などの問題から、入学辞退が相次いだ。入学した生徒は例年の約1/3。

教職員、生徒数百名が避難していたが、「この設備を使って出来ることがある」と非常に素早くヘリポートとして、ボランティア活動拠点として解放された。避難者も受け入れた。

この大学の敷地は非常に何も無い空間が広い。そばを流れる北上川という川の氾濫時、遊水池となるためだ。そんなとき、冗談交じりにカヌー部がグラウンドだった場所に船を出す。

そこは貸せと言われれば貸せる。まあ、平らな広い土地だ。

しかし、拠点や避難所として解放する以上、「私立」には様々な障害要因がある。私立大学は学校ではあるが、同時に企業である。経営しなければならない。建物をいつまで避難所として解放していれば良いのか解らないし、ボランティアの拠点としてもグラウンドに張るテントだけではなく、救援物資貯蔵所が必要であり、また、活動拠点としての部屋を提供しなければならない。それらも期限など全く不明なため、授業に差し障りがあるかも知れない。教職員、生徒が行う事となった運営の苛烈な忙しさは冒頭の通り、記憶障害のような状態となったという。

しかし、この決断は異様に素早かった。災害時はとにかく速さが優先される。ところがこれがとてつもなく難しい。これができる難しさは大人になると解るだろうが、これは組織としての下地が出来ていて、かつ「責任は俺が取る」と言える「上」も必要だ。
この大学は「本校」と呼ばれる専修大学も納得させる必要がある。
本震災で数少ないリーダーシップを発揮できた例と言える。

この学校は比較的新しい。
石巻市が大学を誘致し、そのときに専修大学が名乗りを上げた。
誘致されたはずだったが、住民は賛成と反対半々に別れた。相当の反対運動、あまりおおっぴらに出来ない妨害もあった。歓迎ムードとはほど遠いものだったという。当時の局長は粘り強く努力し、建学にこぎ着けた。

ある職員は言う。
「いろいろあったが、反対された方々にも、今回役に立っていれば・・・・・」

この大学の建学の精神は、”社会に対する報恩奉仕”。

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遅めの入学式を終えた親子と、ボランティアのテント群。 – 石巻専修大学敷地内 2011/5/22

54 宮城県石巻市3 大川小学校

「右手で枝をつかみながら、骨折した左手で土を掘った」
大川小学校5年生が、津波により埋まった友人を助けた際に。(※1)

 

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石巻の大川小学校は本震災最大の悲劇の舞台である。
108名の児童の74人が死亡・行方不明となった。

画像の通り、裏にはすぐ山がある。小学生でも上れる傾斜である。
「何故すぐに山に逃げなかったのか?」
これは大きな議論を呼んだ。

素早く山に逃げれば間違いなく助かった。

そう、「った」 と言う事が問題点だ。

■経緯

地震後校庭に避難。点呼を取ったのが15時頃。
山に避難するかどうかでもめる。
「山に逃げるか」
「この揺れでは木が倒れる」
「山は崩れないのか」

「大津波が来る」そう慌てて駆け込んだ母親がいたが、
「落ち着いてください」と話された。
「危機感がないようだった」という。
一部の親が自動車で駆けつけ、児童を拾っていった。
もめにもめ、地震発生から40分後の15:25分、津波が迫ってきたと解ってからようやく近くの校庭から6-7メートルの高さにある交差点に逃げようとした。
避難途中の15:37分、津波襲来。

■原因

この地区に大津波が来たことは数百年無かったとされている。

大川小学校はその名の通り川沿いにあり、海など見えない。

そのためもあってか大川小学校では、大津波警報が鳴ったが、どこに逃げれば良いのか決まっていなかった。津波の際の避難マニュアルには避難場所は「高台」とだけあった。
「津波が来るのは現実的ではない」と判断されたためだろう。
周囲の5小中学校のうち、1校は避難マニュアルさえ無かったという。

しかし川を4キロ遡ってきた津波は児童を一気に飲み込んだ。

津波が来た記録がめったにない東京都で、海から東京駅まで飲み込まれたと思えばわかりやすいのではないだろうか。

■おびえた山崩れの記憶と安心した津波の記憶

ここでは油断もあったが、油断しなくても判断基準が無いと「混乱」する事が解る。
さて油断に関してはさんざん書いたので、別角度から述べてみよう。これはあまり新聞もニュースも述べていないし、被災者も語っていない内容なので、何年か石巻に居たものとしての予想だ。

なので今回、「何故山に逃げなかったのか」というのを取り上げたいと思う。
まず、平時の精神状態では道の無い山など登れない。イメージ的には、密集した草木は壁と一緒だ。

次に、山なら津波は来ないのかと言うことだ。
2003年の三陸南地震時、私は石巻市に居た。地震後、大川小学校の裏山のような杉山は何カ所も、大規模に崩落していた。巻き込まれたら絶対に助からない。
しかも3年前の2008年岩手・宮城内陸地震では、内陸にある栗駒山大崩落による超巨大クレーター形成の記憶、土石流による巨大な被害の記憶がある。
不幸にもこの記憶がどこかにあったのではないだろうか?
そしてこの震災の少し前に発生したチリ地震津波は厳戒態勢で迎え撃ったがちょっと水位が上がっただけで終わり、拍子抜けした。この記憶も残った。

この結果にこの記憶は多少なりともかかわっているのでは無いだろうか。
私ももし同じ状況になったら、山が崩れる記憶がよみがえるかも知れない。

彼らは数百年も来ていない津波に、どう対処すれば良かったのだろうか・・・
あなたの居る場所は、そしてあなたの頭の中はこうはならないと言えるだろうか・・・・

 

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寄贈された「子まもり」像。冬になるとマフラーが巻かれていた。

 

※1「骨折した手で友人掘った」 児童証言、生々しく 74人死亡・不明の大川小
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110824/dst11082406590001-n1.htm

参考・・・避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小 読売オンライン
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110613-OYT1T00508.htm

53 宮城県石巻市2 牡蠣

復帰できる仕事を牡蠣養殖・種牡蠣販売に見てみようと思う。

宮城県北部から三陸にかけて、牡蠣の養殖が盛んである。また、全国で数少ない牡蠣の産卵の場所でもある。
石巻に限ったわけでは無いが、石巻市の金華山の牡蠣はこれまた有名だ。
私の親戚知人にも牡蠣の養殖を営んでいる人がいる。

本震災ほどではないが、何年かに一度牡蠣の養殖棚が毎回流出されているのを見ると思う。台風が来たら流され、小さい津波が流され、養殖業者はとてつもなく大変な思いをしているイメージがある。
そのたびに復帰している。

素晴らしい努力がある。そしてそれは全く否定しない。実際、牡蠣をやめる業者も少なくない。
しかしそこで話が終わったら、「テレビで見る牡蠣のおっちゃんはあんなに頑張っているのに」という冷たい言葉を別な被災者に浴びせてしまうかも知れない。
それを避けていただくために、一例として上げる。だから復旧できたのは当然だ、というわけでは無い。

宮城県のマガキは、最もおいしいかどうかは一荒れ来るので置いといて、結果的に世界最大の種となった。食べ物としての出荷量は日本一は広島だが、牡蠣全体としてみて、種牡蠣と呼ばれる稚貝の輸出量は宮城県が圧倒的で、広島の8倍を誇る。(農林水産省 2009)

たとえば牡蠣と言えばフランスだが、1970年代に流行した牡蠣が死滅する病気に絶滅に近いダメージを受けた。
そのとき、何故かその病気に耐性の持つ宮城県産牡蠣が大量に輸出され、フランスの牡蠣食は守られた。現在、約99%のフランス産牡蠣が宮城県の牡蠣の子孫となっている。
(2008年周辺からまたフランスでの牡蠣の具合が悪くなったようで、種牡蠣を輸入しているとのこと)

世界で最も養殖されている牡蠣は宮城県産なのだ。

その話を知っているルイ・ヴィトンのオーナーが震災後牡蠣棚を様子を見に来たのはマイナーな話だが有名ではある。

これだけだと種牡蠣養殖の業者だけが儲かるような響きがあるが、牡蠣の養殖も具合はいい。
高級料亭などに下ろされる牡蠣もやはり日本だと三陸産が多い「らしい」が、割合は知らない。

地元の水産加工従事者によるとどうも広島は15年前ほど余計なダムを造ったらしく、三陸産の牡蠣は変わらぬ味で人気を伸ばしている「らしい」。

つまり、調子がいいのだ。
災害は調子のいい商売にとっては「ダメージ」で済むが、縮小傾向の調子の悪い商売にとっては、「とどめ」になる。
なので一概に「~は頑張っているのに」という言葉で済まないのである。

余談だが砂浜が無くなっていくのも砂防ダムのせいとはっきりしつつあるらしく(砂防ダム推進派は温暖化のせいにしようとしていたらしいが・・・)ダムは海に良くないようだ。

52 宮城県石巻市

大船渡に向かう途中の話である。

宮城県石巻市の日和山。カメラを持って車を降りた。

 

「アンちゃんたち、どっから来たんだい?」
撮影をしていると、知らないおじいさんに話しかけられる。
「七ヶ浜から大船渡の実家に向かう途中なんですが、6年間石巻の学校に居たんですよ」
この返事をすると、口調が柔らかくなったように感じた。
「おーおー、そうか、俺もそこに住んでおってなあ。全部やられた・・・・」

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石巻で出会った老人。自宅に母の位牌を探しに来たという。 2011/05

宮城県石巻市

死者数 3182
行方不明者数 595
建物全半壊数 33378

(2012/1現在。 www.pref.miyagi.jp より)


「宮城県警によりますと・・・・石巻 牡鹿半島の浜辺に・・・
1000体以上の遺体が・・・・打ち上げられているということです・・・・」
(当時のラジオ)

水分子の入り込める隙間を海に対してあけていた場所のあらゆるものが徹底して破壊された。
一軒家に17台の自動車が突っ込むような惨状も見られた。想像できるだろうか?

老人は位牌を探しに来たと言うが、ここまで破壊的だと見つかる気配は無いようにみえた。

石巻市は三陸の最下部に属する。本震災で最大の死者数を出した。ちなみに、建物の最大被害は本震災では仙台市である。

くだらない話だが、黒くて大きいカメラを持っているとどうも報道関係者に勘違いされる。
「どうもありがとうございます、ご苦労様です」と挨拶されることもある。
制作側には全く意図されてないだろうが、黒いカメラはフォーマルブラックの神妙な意味も持つのかも知れない。

■カメラ

ある被災地の床屋で
「どっかから来たガキ共がケータイで撮影しながらうろうろしている ふざけやがって」
とぼやく「おやっさん」が居た。
コンパクトデジカメやケータイだと、少なからず「馬鹿にされている」感が強く感じられるようである。

実際、半笑いで「スゲースゲー」いいながらケータイを向ける連中は多かった。
それもそれで脅威を伝えるという意味を持てば良いのだが、感情を逆撫でするように取られたのである。

私は撮影するときに必死に「必ず無駄にしない」と考えていた。
その言葉を毎度呟きながら、できる限り画質もしっかり残すために気を使った。
画質が良ければ良いほど、与える印象は強くなる。

被災地の写真集では、わざわざ朝日や夕日をバックに撮影したりすると思うが、あれは当然ずっと理想的な天候と時間まで待つわけである。
しかし、素晴らしいというとバツが悪いが、印象深いカットにまで仕上げていただけると、「伝えていただければ」という気持ちになる人々も多いのは事実である。

携帯でもなんでも撮影するときは、手を合わせると良いだろう。

 

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日和山より、門脇、南浜方面を望む。大量破壊兵器もこのようなものなのだろうか 2011/05

石巻市は漫画家「石ノ森章太郎」の名前の元にもなったところである。駅前には仮面ライダーやサイボーグ009の等身大程度の像が並んでいる。
よもやま話も付与しておくと、猫の島と言われる「田代島」の猫たちは津波でも無事だったが、現地では津波前から近年田代島の猫は近親交配が進みすぎ、病気で個体数が激減しつつあったということだ。

石巻は少々詳しくしゃべれるので、長くなる。

51 福島県相馬市

会社の仕事を手伝ってくれているA氏は親戚が5名被災し、5月当時は全員行方不明扱いになっていた。そのうち3名が福島県相馬市で被災したという。
A氏は車を持っていないので、福島県郡山市で合流し手を合わせために車で乗っけた。

「さて行こうか」

着く頃には夕方になっていた。この夕方という雰囲気が妙に被災地の雰囲気を出す。
来る途中から嫌な平地が見えたとは思った。

「何があったんだ?」

 

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福島県相馬市

被災状況 海に面する平地は壊滅
最大波高 不明
死者数・不明者数 459名 (2012/1 福島県発表)
建物全半壊 1595 (2012/1 福島県発表)

相馬市は高速の津波が数十メートルもある水しぶきをまとって防波堤に直撃したの映像が有名である。
あの巨大な消波ブロック(別名テトラポッド 不動テトラ社の商標登録)が抵抗できずにポップコーンのように散乱した。

この光景を見てAはぼやいた。
「これは無理だよ、死ぬよ」

自衛隊員、戦場カメラマンは口々に言う。
「戦場より酷い」

私はこの時までリップサービスだと思っていた。
「しかたがない」と思えるようにしようとするケアの一種であると。

ところが写真撮影が趣味で、「ヒロシマ・ナガサキ」「東京大空襲」等の例外的な大規模破壊を伴った第二次世界大戦より後の戦場の写真集を見たことがある方ならご存じの通り、基本的に印象的な一枚を撮影するため写真の中に余計な部分が入り込まないよう、あの手この手で無駄なところを絞る。街だったところが地平線になる「数キロにわたる広大な破壊光景」などまず見た事が無いはずだ。

この光景はどこを撮影してもあまりに広大な破壊でどう撮れば良いのか良くわからない。絞ったら絞ったで、広大な破壊を表現出来ない。そして不釣り合いに現代的な文明の残骸を晒し、人間の気配を全く感じないのである。

確かに戦場カメラマンの出番と言うより、風景写真家の出番だった。

「元はどうだったんだ」
Aに尋ねると、
「自分がどこに居るのか良くわからない」
という。
「家もどこなのかさっぱりわからない。あっちだった気がするんだけど」

破壊後に向かった何十年も住んだ自分の家を気付かずに何度か素通りしてしまったことという話は良く聞く。つまり実際に家があった場所の目の前でこう言う。
「ここら辺だったと思うんだけど」

東日本 097
「神様はいなかったなー」
Aが言う。
「多分、神も津波で死んだ」
この神も津波前は祈られていたはずだ。

我々は地平線に向かって手を合わせた。

もしあなたが身内を失っているならば多少厳しい内容になるが、防災という観点から許していただきたい。

皆、身内が「死ぬ」まで到ってない場合、もしくは訴える相手がいる場合、誰かのせいにした。
行政が悪い、市が悪い、町が悪い、回りの人も避難しなかったから・・・と。

身内の死を含む徹底した被害を被った場合、無言か、津波への油断を聞くことが多い。
失ってはならないものを失ったときに、結局人は自分を責めるしかないことに気付く。責めようにも、無いし・・
この世の全てがまず自己責任だったと。

自分を責めるなと言う幸福論もあるが、もし有事の前に自分の油断を責めることができていれば、(まわりに大げさだぜ、と言われようが)全て好転していたのではないか・・・・・
自分を全く責めない教師に、自分の子供を預ける気持ちになるだろうか?
きっと自分の勉強不足を棚に上げ、「教え方が悪いんだよ」という子供に育つに違いない。

自分を責める。自責。自己責任。

 

現実はしかし、偶然良い方に転ぶこともある。

相馬市の電車が被災したとき、
電車に偶然乗り合わせた警察官が無線で津波が来ると気づき、乗客を全員高台まで誘導、無事だった。

電車は車にひかれた缶コーヒーのように潰れてねじ曲がりブリッジを作った。(画像がなくて申し訳ないが・・・・)
残ったらほぼ間違いなく即死だっただろう。