51 福島県相馬市

会社の仕事を手伝ってくれているA氏は親戚が5名被災し、5月当時は全員行方不明扱いになっていた。そのうち3名が福島県相馬市で被災したという。
A氏は車を持っていないので、福島県郡山市で合流し手を合わせために車で乗っけた。

「さて行こうか」

着く頃には夕方になっていた。この夕方という雰囲気が妙に被災地の雰囲気を出す。
来る途中から嫌な平地が見えたとは思った。

「何があったんだ?」

 

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福島県相馬市

被災状況 海に面する平地は壊滅
最大波高 不明
死者数・不明者数 459名 (2012/1 福島県発表)
建物全半壊 1595 (2012/1 福島県発表)

相馬市は高速の津波が数十メートルもある水しぶきをまとって防波堤に直撃したの映像が有名である。
あの巨大な消波ブロック(別名テトラポッド 不動テトラ社の商標登録)が抵抗できずにポップコーンのように散乱した。

この光景を見てAはぼやいた。
「これは無理だよ、死ぬよ」

自衛隊員、戦場カメラマンは口々に言う。
「戦場より酷い」

私はこの時までリップサービスだと思っていた。
「しかたがない」と思えるようにしようとするケアの一種であると。

ところが写真撮影が趣味で、「ヒロシマ・ナガサキ」「東京大空襲」等の例外的な大規模破壊を伴った第二次世界大戦より後の戦場の写真集を見たことがある方ならご存じの通り、基本的に印象的な一枚を撮影するため写真の中に余計な部分が入り込まないよう、あの手この手で無駄なところを絞る。街だったところが地平線になる「数キロにわたる広大な破壊光景」などまず見た事が無いはずだ。

この光景はどこを撮影してもあまりに広大な破壊でどう撮れば良いのか良くわからない。絞ったら絞ったで、広大な破壊を表現出来ない。そして不釣り合いに現代的な文明の残骸を晒し、人間の気配を全く感じないのである。

確かに戦場カメラマンの出番と言うより、風景写真家の出番だった。

「元はどうだったんだ」
Aに尋ねると、
「自分がどこに居るのか良くわからない」
という。
「家もどこなのかさっぱりわからない。あっちだった気がするんだけど」

破壊後に向かった何十年も住んだ自分の家を気付かずに何度か素通りしてしまったことという話は良く聞く。つまり実際に家があった場所の目の前でこう言う。
「ここら辺だったと思うんだけど」

東日本 097
「神様はいなかったなー」
Aが言う。
「多分、神も津波で死んだ」
この神も津波前は祈られていたはずだ。

我々は地平線に向かって手を合わせた。

もしあなたが身内を失っているならば多少厳しい内容になるが、防災という観点から許していただきたい。

皆、身内が「死ぬ」まで到ってない場合、もしくは訴える相手がいる場合、誰かのせいにした。
行政が悪い、市が悪い、町が悪い、回りの人も避難しなかったから・・・と。

身内の死を含む徹底した被害を被った場合、無言か、津波への油断を聞くことが多い。
失ってはならないものを失ったときに、結局人は自分を責めるしかないことに気付く。責めようにも、無いし・・
この世の全てがまず自己責任だったと。

自分を責めるなと言う幸福論もあるが、もし有事の前に自分の油断を責めることができていれば、(まわりに大げさだぜ、と言われようが)全て好転していたのではないか・・・・・
自分を全く責めない教師に、自分の子供を預ける気持ちになるだろうか?
きっと自分の勉強不足を棚に上げ、「教え方が悪いんだよ」という子供に育つに違いない。

自分を責める。自責。自己責任。

 

現実はしかし、偶然良い方に転ぶこともある。

相馬市の電車が被災したとき、
電車に偶然乗り合わせた警察官が無線で津波が来ると気づき、乗客を全員高台まで誘導、無事だった。

電車は車にひかれた缶コーヒーのように潰れてねじ曲がりブリッジを作った。(画像がなくて申し訳ないが・・・・)
残ったらほぼ間違いなく即死だっただろう。