54 宮城県石巻市3 大川小学校

「右手で枝をつかみながら、骨折した左手で土を掘った」
大川小学校5年生が、津波により埋まった友人を助けた際に。(※1)

 

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石巻の大川小学校は本震災最大の悲劇の舞台である。
108名の児童の74人が死亡・行方不明となった。

画像の通り、裏にはすぐ山がある。小学生でも上れる傾斜である。
「何故すぐに山に逃げなかったのか?」
これは大きな議論を呼んだ。

素早く山に逃げれば間違いなく助かった。

そう、「った」 と言う事が問題点だ。

■経緯

地震後校庭に避難。点呼を取ったのが15時頃。
山に避難するかどうかでもめる。
「山に逃げるか」
「この揺れでは木が倒れる」
「山は崩れないのか」

「大津波が来る」そう慌てて駆け込んだ母親がいたが、
「落ち着いてください」と話された。
「危機感がないようだった」という。
一部の親が自動車で駆けつけ、児童を拾っていった。
もめにもめ、地震発生から40分後の15:25分、津波が迫ってきたと解ってからようやく近くの校庭から6-7メートルの高さにある交差点に逃げようとした。
避難途中の15:37分、津波襲来。

■原因

この地区に大津波が来たことは数百年無かったとされている。

大川小学校はその名の通り川沿いにあり、海など見えない。

そのためもあってか大川小学校では、大津波警報が鳴ったが、どこに逃げれば良いのか決まっていなかった。津波の際の避難マニュアルには避難場所は「高台」とだけあった。
「津波が来るのは現実的ではない」と判断されたためだろう。
周囲の5小中学校のうち、1校は避難マニュアルさえ無かったという。

しかし川を4キロ遡ってきた津波は児童を一気に飲み込んだ。

津波が来た記録がめったにない東京都で、海から東京駅まで飲み込まれたと思えばわかりやすいのではないだろうか。

■おびえた山崩れの記憶と安心した津波の記憶

ここでは油断もあったが、油断しなくても判断基準が無いと「混乱」する事が解る。
さて油断に関してはさんざん書いたので、別角度から述べてみよう。これはあまり新聞もニュースも述べていないし、被災者も語っていない内容なので、何年か石巻に居たものとしての予想だ。

なので今回、「何故山に逃げなかったのか」というのを取り上げたいと思う。
まず、平時の精神状態では道の無い山など登れない。イメージ的には、密集した草木は壁と一緒だ。

次に、山なら津波は来ないのかと言うことだ。
2003年の三陸南地震時、私は石巻市に居た。地震後、大川小学校の裏山のような杉山は何カ所も、大規模に崩落していた。巻き込まれたら絶対に助からない。
しかも3年前の2008年岩手・宮城内陸地震では、内陸にある栗駒山大崩落による超巨大クレーター形成の記憶、土石流による巨大な被害の記憶がある。
不幸にもこの記憶がどこかにあったのではないだろうか?
そしてこの震災の少し前に発生したチリ地震津波は厳戒態勢で迎え撃ったがちょっと水位が上がっただけで終わり、拍子抜けした。この記憶も残った。

この結果にこの記憶は多少なりともかかわっているのでは無いだろうか。
私ももし同じ状況になったら、山が崩れる記憶がよみがえるかも知れない。

彼らは数百年も来ていない津波に、どう対処すれば良かったのだろうか・・・
あなたの居る場所は、そしてあなたの頭の中はこうはならないと言えるだろうか・・・・

 

ookawa

寄贈された「子まもり」像。冬になるとマフラーが巻かれていた。

 

※1「骨折した手で友人掘った」 児童証言、生々しく 74人死亡・不明の大川小
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110824/dst11082406590001-n1.htm

参考・・・避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小 読売オンライン
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110613-OYT1T00508.htm