30 犯罪

「み、水が大きいトラックに取られたって」
「ハア?」
例の床屋の息子である。
「朝方大きいトラックが来て、貯水槽から水をたくさん持って行ったって」
「北斗の拳じゃん」
※北斗の拳・・・週刊少年ジャンプに連載されていた漫画。ヒャッハア―!水だ-!、という水の略奪シーンがある。

七ヶ浜町内はその時点でボートを使わないと移動できない場所はほとんど無くなっていた。外部からの出入りは十分に可能である。
私も何度か水を汲みに行ったが、まさかそこまで水に困窮している人間が居るとは思わなかった。

まあ、別な避難所の連中が配るために持って行ったのかも知れないし・・・・・

「あのコンビニのATM、何時間も持たなかったって」
「確かに、昨日写真撮りに行ったらすでにATMなんて転がってなかったよ」

なにやら良くない話が続き、そんなこんなで、今ある水を大事にしていきますか、という話になった。

 

暫く後、貯水槽から水は消えた。

 

「なんか、変な連中が居るんですよ」
床屋の息子の同級生Sも一緒にやってきた。(余談だが、私はこの同級生の薦めたゲームを今もしており、かなり強い)
「なんだよ、変な連中って」
私は返事をしながらお出しするための水を紙コップに注ぐ。

「食べ物をやたら持ってて、避難所で売ってるんです。みんな、コンビニとかスーパーから盗んだんじゃないか、って言ってるんですけど」
「まあ、食われずに腐るよりはいいわな」
私は率直な感想を述べ、笑った。

「なんというか、まずいんですよ。変な連中が徘徊してて、消防団も注意してくれって言ってます 原付の二人組だとか。俺、原付見ました。二手に分かれて様子見しているとか」
私は水を出した。
「変だね。確かに、警察なんて機能してないから、盗まない理由なんて無いよね。でも盗むモノなんて無限に転がってるだろうに。無事なところを回る理由ってあるのかな・・・」
「どうなんでしょうね」
「アレか、分厚い瓦礫を掘るよりも、大爆発の避難指示に従って金目のものを置いたままもぬけのカラになってる家を荒らそうってハラか」

「そういえば、一緒に話していた原付2人組が、それぞれ別れて別方向に出発してったね」
妙にリアルな響きで、母親が突っ込んでくる。真実みが増してきた。
Sは言う。
「実際、俺も今、家無事ですけど、避難所に居るんですよ。避難所にはストーブがあるんで」
「なるほど・・・」

だるまストーブの偉大さを知った。

原付で貴重なガソリンを使って徘徊するという行動は確かに変である。ガソリンは最早供給されない状態にあり、文字通り、血液よりも需要があるのだ。

3人で消防団の詰め所に原付の目撃を報告すると、消防団も疲れ切っているせいか、元気は無い。
そこから一人で帰る時の話である。

妙にきょろきょろする男が乗った原付とあった。

原付の色は緑で、タイヤまで非常にきれい。
上着はウィンドブレーカー調。
20代、やや肌は浅黒く、ヘルメットをしている。

笑顔で礼をすると、視線をそらしただけである。

挨拶は、「敵かどうか」という重要な意味を持っていると実感したのはこのときが初めてでは無かったか。

おそらく、夜に彼、またはどこかに居るであろう彼のグループと私の家の敷地内で出会うことがあれば、挨拶ではない・・・・・・残念なやりとりすることになるだろう。

薄暗くなる時間に家に戻ると、ラジオは言う。

「まもなく、日没です・・・・・・」

29  その後の世界

生存には希望が持てるものの、地震、津波、原発で未来にあまり良い望が持てない状況と化した。
阪神大震災でも、(2011年3月現在)神戸は復旧に失敗していることは知っていた。

瓦礫は安全靴を貫通しうるほど重く、硬い。まだまだ素人が片付けられる領域では無いし、盗人に間違われる。うかつな手伝いはできない。

となると水も食事も自前であるため、とりあえずやるべき事は勉強か運動になる。風呂がないだろうから汗をかかない程度だが、校庭にある鉄棒で運動をしておく。運動の重要性は避難所に普及した体操で解ってくれると思うが、問題はあの破壊の翌日に体を動かす気になるかどうかで、人によっては自粛しろと言いたいかも知れない。なるほどそれに関しては賛否がある。何にせよ、運動はチマチマしていくことになる。

■あるジムの話

「大変でしたよ、自粛しろっていう電話ばかりでした」
日本でも最大級のあるジムを運営する本社内で、職員が教えてくれた。

――本当ですか、今の日本で食事なんてしてれば、運動以上に大切なことなんて仕事、家庭くらいでしょう。重要度は勉強と同等かもしれません。そのくらい見つける方が難しいのに
「9割は自粛しろ、って言う電話でしたね。こんな時に運動なんてしている場合か。電気がもったいない、と」
――ばかな・・・
「シャワーが使えたんで助かる、っていう応援もありましたよ。でも、ほとんどありません」

9割である。いろんな事を考えさせられる話である。
自粛を求める方は運動をしないような人々にすら感じられるのだが、それはあまりにも荒っぽい分け方だ。

自粛とは何だろうか。
自粛すべきである、自粛は合理的ではない、この二点の考え方は、「被災地に対し、何らかの形で貢献することを促そう」という一点で一致する。

災害状態の外に居る人も、”全く無意味であっても”自らに何らかの痛みを与えようとするという。(例えば、使用期限に決して間に合わない地域での献血が被災地に向けて行われたという – 災害ユートピア)国内は言うに及ばず、諸外国からも「日本の自粛は全く無意味である」と言った意見はあったが、こういった自粛は日本だけではないようだ。

災害時に諸外国は~が変だ、~がおかしい、~が素晴らしい、という。「同じ人間にそんなに違いがあるかあ?んー?」毎回変だと思ったので、ずいぶん調べたが、「日本はここが違う」という諸外国の意見というのはまず災害をモロに体験していない諸外国人が発信した意見だと感じる。

消費を促すのも、「財布の中身に金を貯め込むな、消費しろ、これは自分だけヌクヌクしてちゃダメだ」という形の何らかの自己犠牲ではないか。

これはその後の世界の感想として、事象を追って話していきたいと思う。どちらも効果があるのだ。

 

 

例によって「どこから水を持ってきたんだ」という避難者の視線で気まずくなりながら歯を磨く。こればかりは自粛出来ない。寝る準備をする。
セダンに3人寝るのは狭い。全員冬なのでやや厚手の(元々家にあった)寝袋を被るのだが、後部座席も人で埋まるとなれば、それは容赦なく運転席に居る私の太腿にハンドルが食い込む原因となる。狭さはエコノミー症候群の原因になるので、チマチマ体を動かしながら朝を待つわけだ。

自動車は究極の居住空間である。
水道ガスがないだけで耐震かつ免震、冷暖房、ラジオ・またはテレビ機能を持つ発電・移動可能の「家」である。六本木ヒルズだって発電は出来るが移動は出来ない。
夏に被災したら熱中症は深刻だろう。北風と太陽よろしく何か被れれば死なない冬の比では無い。ところが、車は大丈夫なのだ。

 

3月13日

朝になると、こんな寒いところで寝れるか!と父親がわめき出すので無理矢理家に帰ることになった。またもや大爆発は運命に任せることになる。根性が無いな、というこの母親の顔!
私は虚しくハンドルが食い込み終わった太腿を叩く。

両親の自動車は2台とも多賀城で水没しており、3台入る駐車スペースには1台が入るのみ。なにやら駐車が楽になった。

確かに家にはたまたま買いだめしておいた灯油が大量にあった。灯油ストーブは一ヶ月ほど使える。
エアコン導入時に灯油ストーブを捨てられるような出力のものを買おうとしていたが、2ヶ月待ちと言う事で妥協した。この選択は幸運なことに灯油ストーブは捨てられること無く灯りと暖かさを提供する結果になった。ガス缶が無くても容易にお湯が沸かせる。灯油ストーブは様々なことが出来るのである。

食事は水を使って食器を洗えない。紙皿や紙コップがたくさんあったためそれを使った。カレーなど重い物を調達された場合、食器をラップでくるむ。
私はMRPという完全流動食で間に合う。

給水はまだ来ないが、ご近所から聞けば町が防災用に用意していた巨大な貯水タンクがあり、飲料用にも使えるという。水と火、食べ物があるなら、とりあえず大丈夫なはずだ。

インフラは完全に無い。
携帯は所有している3キャリアともつながる気配は無い。
ガソリンも手に入る気配は無いようだ。何が起きているのかはラジオが頼りである。

日が沈み始める頃、電気がなければ誰も何もできる事が無くなるのだろう。人の居る気配がなくなっていく。鳥の鳴き声もしなくなる。町から一切の音が消える。

ラジオは言う。

「まもなく、日没です・・・・」

28 所感

不安定なところにノートパソコンを置いたとする。
そして明らかに危険だと解るとてつもない地震が来たとする。

そのとき、真っ先に逃げるだろうか?それとも、ノートパソコンを押さえるだろうか?
私は多くの人がノートパソコンを押さえると思う。
何せ、自分が死ぬ想像をして避難を考えるより、ノートパソコンは落ちたら不味いモノだとつくづく知り尽くしていて、それを真っ先に押さえる方が手順が明確で、定期的に落ちそうな、落ちたらまずいモノをつかもうとする実践をしているからだ。
それがノートパソコンではなく文庫本だったら、無視するだろう。

私は避難にに対して崇高な判断能力があったわけでは無い。ただ単に、家の海抜ならまず安全だろうと思えたから、家に置いたモノに対して安心して逃げる事ができた。つまり、モノに対して油断できたのだ。
もし本当に津波が届きそうだったら、慌てて持ち逃げするモノを決めたに違いない。どんな水でもものすごい勢いで流れてきたなら、今まで手に入れてきた物質的なモノは、全て消滅する。津波など経験した事はないが、それだけは解る。

人は油断をする生き物である。油断は絶対に無くならない。ならば、先々油断してもカバーできるようにおけばいい。そして今回油断できる場所に家があった。

津波てんでんこ「お互い心配しないでバラバラに逃げろ、家族も同じように絶対逃げきっている」というのは、家族に安心出来る、つまり油断できると言うことではないか。

私が長々と所感を使って油断というものに言いたかったことは、
「油断はするべきではないが、決して無くならない。
失ったらまずいモノこそ、今、油断してもいい状態にしておけ」
と言う事である。

古人曰く、「備えあれば憂い無し」と。

 

■その後の世界 まえがき

誰かを助けようとして死んだ、というと美談になる。
モノを取りに行って死んだ、と言うとダメなことの筆頭になる。

しかし失いたくないモノを助けようとした結果となると、私はどちらも美談だと思う。
なるほどあれもこれも持とう、と言うと浅ましさを感じるかも知れない。

大切なモノを失ってしまった人間はどうなるのだろうか?
これは「警報を信じない」「津波の高さを侮った」「見てから逃げて間に合わなかった」ケースと少し違ってくると考えている。こちらは無知は大罪(得られた結果は、死)だ。(何度も言うが、責めることは出来ない)
津波が来ると確信したからこそ、人やモノを助けて逃げようとしたのではないか?
持って逃げられないモノもある。自分の会社の工場であったり、家だったりする。それは失ってはならないモノだが、絶対に持てないのでその場では諦めが付く。
しかしその後、絶望を伴うのである。

自分の命が一番!助かるのが大事!貴方が世界で一番尊い!という考えの方には理解しがたいと思うが、モノは生命より大事なこともあるのだ。モノを失った未来を想像するより、ここで共に死のう、とすら思う人間は多い。
たとえば仕事に五体で再起できる年齢や技術職なら大抵が自分の能力があればそれがモノとなりなんとかなる。しかし再起できないと思い込める年齢、また端から見ても希望が持てない年齢で積み上げたモノが全て消失したらどうだろうか。

最近流行っている本当に必要なモノ以外全て捨てていくライフスタイルがある。
このライフスタイルは私も好きだ。わけのわからない”モノ事”に右往左往せず、捨ててはならないモノ(お金、技術、会社、思い出)を大切に扱い、または磨くための考えである。

だが、失ってはならない、生き甲斐を伴うモノを奪われた人はどうなるのだろうか?

ここからの話は、その後の世界になる。
被災と考えると、”奇跡の生還!人助け!家族が死んだ!家が無くなった!悲惨だ!頑張ってる!電気無い!水が無い!酷い!日本人は我慢強い!”
そんなイメージがあるかも知れない。

私は家も職場も残して被災に触れることが出来た。この経験が無かったら、災害に対して一生勘違いをしているところがあっただろう。
経験、また図書も参考にしてあるが、参考部分や伝聞部分は必ずそれを示す旨を入れることにする。

私と聞いた話と違う!と思った方は、おそらくそれも正しいが、決して一例で済まない状況を憶えて欲しい。
災害者には色々居るのだ。

災害後の弱者
一般的被災者
サバイバー
災害後の強者
主に社会的インフラのみの被災者
現地に居ないが、家族などが被災した人・・・

また、今回様々なことを思い起こすに当たって、(よくこんな憶えているな、と突っ込まれることがあるが)特に人を自分の印象や思い込みでくくらないことに細心の注意を払っている。
(思い込みは、今回かなり打ち砕かれた)

ようこそ、その後の世界へ。

27 津波と三陸

私が「経験した事も無いのに津波に用心深い」ようなイメージを持ったとしたら、三陸の度重なる津波への説教が作り上げたに違いない。

私の出身地はその大船渡市だからである。

私がまだ小学生だった頃、父の厄年に送られてきた厄年向けの小中学校アルバムに我が家の家族が乗っているのを見せられたとき、別なページにチリ地震津波のセピアなモノクロ写真が一枚写っていた。家族の写真を見せたかったんだろう父には悪いが、そっちの方が気になってしょうがない。

町が消え去った写真に付けられたキャプションは確かこういったものである。
「みんななくなった うちも、あんたの家も、友達も・・・・」

小学生が触れる破壊として思い出すのは大概の小学校にある「はだしのゲン」(中沢啓治 集英社・週刊少年ジャンプ)の”ヒロシマ”なのだが、私はこの写真にそれに近い衝撃を受けた。チリ地震津波の話は聞かされていたが、これほどのものなのだと。

つまり私が津波を非常に恐ろしいものである、と思ったスタート地点はこの写真であった。この写真に出会わなかったら、わざわざ海の見える建物を職場にしてしまったかも知れない。
カメラを持ち出したときの話に戻ってしまうが、私は全てのものが無事だったのを見て、なるほどカメラは生命の次に重要であり、写真は生命を救いうるのであると感じることが出来たのである。

その後小学校だか中学校だか憶えてはいないが、あるとき、社会科の授業で教師が「フィヨルドの地形は三陸にそっくりですが・・・」と内容の授業をしていた。そのとき「フィヨルドが三陸にそっくりならば、津波大きくなるのか」という素朴な疑問が浮かんだ。
私にとってその頃すでに、津波はサメの生態やクマの筋力と同等の興味深い話題になっていたのである。

私は図書館でフィヨルドの津波を調べていると、1950年代に世界最大級の大津波が発生しており、その遡上高はどうも数値がおかしい。

波高150m以上 遡上高約520m 1958年 アラスカのもの。

(ナショナルジオグラフィック 警告!最大級の自然災害ビッグ4 第2話 破滅的大津波の恐怖 で詳しく述べられています)

チリ地震の5~7m”ごとき”であの破壊力である。
沖縄の遡上高80mオーバーでも脅威としては十分なのだが、アラスカの大津波は「これ以上は来ないだろう」という定義が全く無意味であると教えてくれる。
富士山の6合目に逃げたとしても、逃げないより遙かにマシなのだ。

これ以降、私が「津波。津波は不味い」と恐ろしげにしゃべり、「ふーん」と言われるというやりとりがこの3.11まで続くことになる。

大船渡に先祖から伝わる土地を持つ祖母は、家族が物件の話をする度にこう言う。
「そこは津波が来るところか?」
先祖の土地を守らねばならないが、津波を受けるのは嫌だ、という葛藤にさいなまれていたのだ。
チリ地震津波を教訓に作られたという大船渡湾口防潮堤は最初からアテにしていない。
本震災で、その家は綺麗に消え去った。

祖母は津波の前に(運良く)大往生しているが、
「津波が来るところは決して住むべきではない」
と教えは終始一貫していた。

父は岩手から宮城に転勤のした際、家は津波が来ない(来づらい)高い所に建てた。

(真偽は定かでは無いが話では)仕事では水産関係の工場を設計するときに津波について言う。
「ここは津波が来ますね もうちょっとお金出してこちらの安全な土地にしてはどうですか」
その提案が通ったことはないと言う。
本震災で、設計した工場は壊滅した。

4-5世代以上にわたる長い戦いではあったが、ようやく私の代でほぼ無傷で凌ぐことが出来たことになる。

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大船渡の実家。巨大船舶が家を突き動かし、道路復旧の場所に不都合があるところに飛び出たため破壊され背後の瓦礫になった。 – 岩手県大船渡市 2011年4月30日撮影

(※やや間が目立つパノラマになっています。ご容赦ください)

(前話)冒頭の三陸海岸大津波からの引用は最後のページのからだが、三陸に住んでいると、やはりみんな同じこと考えてしまうわけだと、妙に頷けたのである。

26 所感 – 津波と三陸

「津波は、時世が変わっても無くならない。必ず今後も襲ってくる。
しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているだろうから、死ぬ人はめったにないと思う」

文春文庫 三陸海岸大津波 (吉村昭  2004)

 

さて私は家も職場も無事で、あまりドラマは無い。
しかもあたかも津波が来ることを知っていたように書いてあるところも散見されたと思う。
おそらく本災害以前に津波を「三陸」ではない場所で語ろうものなら、大半の返事が「ハア?」とか「気を付けておいて損は無いけどねえ」と言うような気のない返事をするだろう。

三陸は東北にあるリアス式海岸で非常に豊かな海として知られる。急激にせり上がった厳しい岩と相まった白砂青松は日本有数の海岸美を誇る。気仙沼より北は国立公園として整備されているため、景観を破壊する物もほとんど無い。いきなり南端のスタート地点、気仙沼にあるその名の通り大理石で出来た大理石海岸からは三越本店のライオンが削り出されたという話から始まる。そこから180kmも海岸美が続くのだ。

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高さ200mにも及ぶ岩壁が続く。海岸線沿いは遊歩道とトンネルがあり、散策できる。- 岩手県 陸中海岸国立公園 鵜の巣断崖 2011年撮影

三陸は陸前、陸中、陸奥(ここでは”むつ”ではなく”りくおう”)3つの国から三陸と呼ばれた。
もちろん、普通こんな地元民しか知らない呼び方はまず流行らなさそうだ。東北で若者に駿河生まれと言ってもあまり通じないだろう。

何故三陸という名前がそれなりに知られているのか?それは漁場が豊かだからではないようだ。それに、リアス式海岸なら日本に他にもたくさん有る。

これは明治にあまりに巨大な津波が来たために、被害地域とスッポリ一致する三陸という呼び名が報道に使われ有名になったのである。
カンのいい方はお気づきの通り、Tidal waveに代わりTsunamiが世界で使われはじめたのもこの明治三陸大津波が大本であるとされる。
津波は三陸という呼び名を有名にし・・・三陸はTsunamiという呼び名を有名にした・・・三陸は本当に津波が「特産」なのだ。

この1896年の明治三陸大津波は38.2mという遡上高、観測史上最大を記録した。
(ちなみに、明和大津波は石垣島に85mという記録が残っているが、観測はしていない)
これが綾里という地区で、現在岩手県の「大船渡市綾里」にある。

 

綾里村に残る石碑を現代語訳すると下記の通り。
「綾里白浜は太平洋にまっすぐに向き、津波の勢いを遮る物は無い。野を越え山を走り、2つの湾の津波が合体した」
「死者は頭を砕き、或いは手を抜き脚を折り、筆舌に尽くしがたい。役場は村長1名を残すのみ」
「数十日経ってから上げられた家族の屍にすがって泣くも、遺体は家族が見ても元が解らなくなっている。頭も脚も違う場所に有るような遺体に至っては悲惨の中の悲惨である」

1933年、また三陸を直撃した昭和三陸大津波は最大遡上高は28.7m。また同じ「現大船渡市綾里」である。
1960年、チリ地震津波が三陸を襲い、またもや岩手県「大船渡市」が最も多い死者を出した。

チリ地震津波は夜が明ける前に大船渡市民の漁師が海の異変の気づき、必死に声を出して住民に伝え、市内でサイレンが鳴ったという。
地震が無い津波はその当時一般的では無く、気象庁は津波が来た数時間後初めて、津波の恐れ、と発表するに留めた。
(ちなみにハワイがこの津波による死者を事前に出しており、この津波の5年前にチリで大地震があったら日本も津波を警戒せよと言う論文が発表されている)

大船渡湾に入り込んだチリ地震津波についてこう述べた人が居る。
「一度入った波が湾内で何度も反射し、水去らず。阿鼻叫喚の様」

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大船渡にとって、明治から4度目の大津波 – 岩手県 大船渡市 市街地 2011年5月4日撮影

25 所感 - 把握状況

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三途の川とはあの世とこの世を分けるという意味合いを持つ宗教的な言葉だ。
臨死体験をした人に、花畑や三途の川で手を振られた、と言う話をする人が居る。

私が三途の川のように見えたものは、あるつまらない事で脳に血液が行かなくなった時だった。
視界が端からばらけていくパズルのように、右上、左、左下・・・と一部一部白く欠けていく。
その白い欠けていく範囲がどんどん増えていき、最後は真っ白になる。

その真っ白な視界にピンクだの黄色だのの明るく綺麗な薄い色を散らした川のようなものが水平方向に出てくるのである。
そして耳鳴りを伴う。それがまた高い音で、まるで笑い声のようなのだ。いろんな所から聞こえてくるようでもあった。

三途の川にも見えるし、花畑にも見えるし、光に包まれていくようにも見えるし、ビビッドなアートにも見える。例えようとすればいくらでも例えられるようなものであり、臨死体験にお国柄があると言うが確かにそうだと思う。

ちなみに起きるときに、目の前に真っ赤な壁が出来ていた。自分の流した血の水たまりだった。
なんでそうなってしまったのかは本当につまらないので隠しておく。

今回津波が起きその破壊力に圧倒されている時に、強烈な追い打ちである原子力発電所の爆発事故が入ってきた。
チェルノブイリという遠い国の響きはそれ故に死の世界という意味に聞こえる。
チェルノブイリからのお婿さんです、お嫁さんです、食べ物です、と言うと、影でかなり心ない反応をする親は多いだろう。
安全だと言われても、チェルノブイリ産の野菜だと言われ、気持ちよく子供に食べさせる気になるだろうか?・・・私は放射性物質への反応がたとえ過剰であっても、責める気にはならないのである。(そして実は過剰ではないかも知れない)
福島、東北と聞き慣れている人々にとっては死の世界と聞こえにくいかも知れないが、そういった響きを確実に持った瞬間だった。

この決定的な出来事は、砂礫と化した町にかろうじて残った道路を無気力に歩く様と相まって、物質的にも精神的にも ―そして数多くの犠牲者が本来の意味でも― 三途の川を渡ったと思えてしまったのである。

24 三途の川

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

「長野・・・」
この3月12日時点で長野県の消防車が到着していた。当日から東北方面の道路は大渋滞で、高速道路も通行止めと化した。
ここに来るまでとてつもない労力が払われたに違いない。深く礼する。

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

「道路・・・だったな」
ヘリからならともかく、道路が破壊されている光景を真っ正面から見る事は珍しいと思う。マスコミが来づらいからだ。

当然津波に道路も何も関係は無い。道路は完全に使用不能な状態だった。ここで自動車はあっけにとられて引き返していく。

 

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

波の威力をモロに受ける場所は更地になって何も残っていない。一方、威力がそれなりに弱った場所には瓦礫が溜まる。
浜辺のゴミの溜まる場所を想像していただくとわかりやすいと思うが、軽いものはだいたい波打ち際に溜まっているはずだ。この道路は、瓦礫の溜まる場所を担当したのである。
本来、人が通るためにある筈の道路という先入観がある。その道路を塞ぐ瓦礫は圧倒的なサイズと相まって非現実的である。
街を洗濯機に入れてしまったらこうなるのか。

これから数日ほどでこの道路は通れるようになる。「自衛隊は作業が遅い。民間ならもっと早い」と言われることもあるという。なるほど、数日もかかったと言える。
しかしおそらくそれはこの災害を体験していない、まともに理解しようとしていない、痛みを感じない距離からの机上の空論である。そしてそれを責める気にはならない。(この下りに関しても後に詳しく震災経験を交えて語る)
その発言をした人々はこの瓦礫に何が埋まっているのか考えもついていない。この圧倒的な瓦礫の中に、生存者や行方不明者が絡みついている。しかし人ではない思い出の品々をも彼らは丁寧に手を使って道路際に避けてくれた。

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道路脇に避けられ、主人を待つアルバム – 福島県相馬市 4月30日撮影

自衛隊は「人の復興は物的なものから成されるのではなく、自分たちは決して見捨られなかったという感情的な一体感からなされるものだ」ということを理解し尽くしているようだった。
この”たとえ命が尽きたとしても、災害と戦う”という”徹底した思いやり”の姿勢は多くの人間の胸を打つことになる。

周囲にはコンビニから散乱した酒が転がっていた。ジュースは無いようだ。後に聞くと、避難所でも結構拾った人が居るという。これは警察も自衛隊も「認められるべきリサイクル」扱いをしている。
明治や昭和の昔の津波では”一切落とし物に手を付けるな、自分のものであっても、役人立ち会いのもと確認すべし”という厳しい看板が出ていた頃とは大違いである。

ATMは水が残っているうちに略奪されたという。確かにATMは見当たらない。

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乾いた魚 – 宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

人と違い完全な海の民である魚も打ち上げられ、虚しく乾燥していた。
津波という現象にとって破壊する対象に一切の区別は無い。

 

 

力が抜けた状態で避難所に戻ると、「原発・・・原発・・・」と声が聞こえてくる。
例の床屋の息子を捕まえると、みんなと同じように
「原発が・・・」
と言う。
「なんだよ、原発って・・・あの女川が?」
(※女川原発・・・七ヶ浜から直線30-40kmに存在する東北電力の原発。宮城県で原発、といえば女川)
女川はやや突き出た高台にあるし、地盤はかなり頑丈である。あんな位置で津波に
あんな場所でもやられちゃうわけ?
「い、いや、福島が」
「あっ」
思いだした。あった。確かにあった。福島にも原発があった。あんな・・・・あんなガラクタ・・・・
「まだ動いてたのか」
「う、うん」

「終わりじゃん」

思いだした。あの人々がフラフラと道路”だった”場所を歩く光景を。
いつか見た、三途の川だ。

 

3月11日

東北と北関東で

太平洋に面した低い位置にあるものは

生まれたばかりの赤子であろうが

海を自由に泳ぎ回る魚であろうが

キャデラックの新車であろうが

一家を支えた漁船であろうが

思いやりに満ちた夫婦であろうが

篤い信仰を受けた神であろうが

30年ローンで購入した新築であろうが

原発であろうが

平等に破壊された

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破壊された町を、製油所から出る黒い雲の下で見つめる – 宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

23 三途の川

シャリン・・・
ピロリーン・・・・

うう、うっうっ、ううううう・・・・・・・・

_DSC2582
宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

「・・・・・・」

何も遮るものがなくなったからか、潮風が強い。
老婆の泣き声も潮風に散っていく。

普通町中で音を出せば何かに当たって「響く」はずだった。しかし今当たるものはない。通り過ぎるヘリコプターの音、潮風の音も全て散っていく。
抜け殻のような人々が歩き、ときおり静かに伏せた家に携帯を向けて写真を撮っている。どこかで見たような、何かに似ている光景だった。なんだったっけっか・・・

無音では無い、しかし静寂の世界だった。

「ガソリンスタンドの隣、か・・・」

_DSC2589

宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

製油所の火災の時に親切なおっちゃんから聞いた場所だ。
何も無い。
ただ黙々と消防士が不明者を捜索している。

基礎だけの家に立っている1m程度の粗末な棒に巻かれたビニールの赤い旗が視界の片隅に入った。
何なのか解らないが、何を差し置いても立てる必要があった旗である。

なんだか進む気が失せてしまった。
釘を踏んじゃうかもしれないし・・・と引き返した。

たまたまこういった災害時に”しない方がいいこと”を知っていた私の本心は
「4月から東京に出張がある。ここで”性別も判別不能なほど破壊された子供”などを見た後話が通じないであろう地域に出張に出た場合、正気を保っている自信は無かった」
というものだった。

道路だった場所を歩くと、町内放送が始まった。

「小中学校・・・および・・・・保育所・・・まつぼっくり・・・・
児童館の・・・臨時休校について・・・お知らせします・・・・
3月・・・14日・・・月曜日は・・・臨時休校と・・・いたします・・・」

ふふ、臨時休校ね・・・そうだね、臨時休校、間違って学校に来ちゃったら、大変だもんね、ふふふ・・・・
ハハハハ、でもいいのかい?どう見たって14日だけじゃ済まないぜ!いいのかよたった1日で!無理だろそんなの!ハハハハハ!!!!

22 三途の川

避難所の穏やかな空気を突如子供の酷い泣き声が切り裂いた。
木に縛っていた小型犬にガリリと噛まれたという。

中型・大型犬もこういった場所では警戒すべきだが、小型犬はその見た目から人が特に油断しがちになるようだ。子供たちが同じく木に縛られた中型・大型犬ではなく次々と小型犬を触ろうとする。
ペットショップの知人から聞けばどうも小型犬はサイズ故に飼い主に抱きかかえられる、上に乗せられるといった、”犬にとっての甘やかし”を受ける傾向にあるらしく、噛む性格になることが多いと言う。

かなり痛がっているようで、早速看護師歴足かけ40年の母親が看てくれないかと声をかけられ接収されていく。

犬としてはしつけ云々もあるが、地面は揺れるわ津波は来るわで知らない土地の知らない場所に唐突に放り込まれ知らない人間にいきなり触られるのもストレスということだろうか。
父親は小型犬のそばに張り付き、触ろうとする子供に「噛むぞ!やめろ!」と注意する。

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犬も辛そうである – 宮城県七ヶ浜町 3/12撮影

 

■動物災害

犬が悪いというわけでは無く、犬に対し不注意な人間に問題がある。災害時に動物をかわいがるのは避けた方がいいようだ。自衛隊がボートで展開する状況化で病院は無い。
時に何十年も人を噛まずになれていた筈の犬が、よりによって飼い主の手を陥没させるほどの牙を打ち込むことがある。飼い主は「してはならないことをしたようだ」と言っていたが、飼い主ですらこのようなミスを犯すことがあり得ると言う事である。

むろん猫も危険だ。我が家では猫を飼っていたが、あわれにも弟は腕をズタズタにされてやはり病院送りになったのである。猫はなんて危険な生物だと心から震え上がった。これが被災時に発生するとやはり病院は無い。

なんにせよ被災時には最低でも自分が飼い主じゃない動物に近寄らない方が良いようだ。特に子供にもそう教えておけば間違いは無いだろう。

一人で居るのもヒマなので自動車の貴重なバッテリーを使いラジオを付けると、なんだかよくわからない情報しか入ってこない。
「南三陸町は壊滅的な被害で、発表に寄りますと、住民の半数と連絡が取れていません・・・気仙沼市は甚大な被害・・・牡鹿半島では大量の遺体が発見されており、宮城県警は死者が1万人を超える見通しと発表しました・・・・」
壊滅的と甚大の違いはなんなのか検討がつかない。1960チリ地震津波を受けた岩手県大船渡市の光景なら写真で知っているがあんな感じだろうか?と考える。(大船渡市はチリ地震津波で最大の被害を受けた)
死者は昨日すぐに3桁に達した報告から、阪神大震災を上回るというのはすぐに考えたが、1万人に達するというのは想像できなかったのである。

 

なんで津波なんてもので
そんなに死ねるんだ
まさかみんな海に津波見学に行き
死んだとでもいうのか

 

わけがわからなくなってきた。今にして思えば、津波の破壊力が先日の爆発程度でしか実感出来ていないのが原因の考えが頭から離れないのである。

このころの私は情報を集めて所感を述べられる私では無い。
津波は三陸で常識であって、言われてみれば仙台で津波の看板は見れない事を意識した事は無かった。津波の看板を見ると、岩手県大船渡市にある実家が近い、と思うだけだった。

ラジオを聞きながら色々考えてしまう。
(どこかで「こうして、Tsunamiは世界共通語になりました」というのを日本は凄いでしょう!と言わんばかりのノリで聞かされたとき、不安を感じていたわけです・・・
それってつまり、何度も破壊を受けるという不名誉な歴史があるからでは無いか、とか・・・
それってなんというか、油断しまくった結果であって、そこからちゃんと学んでいますかとか・・・
国道45号線※には津波注意を促す看板の英訳にTsunami Warningと非常に古いTidal Wave Warningが混在していましたが・・・
その看板があるどちらにも、家がギッシリ建っていますとか・・・)

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今では珍しいTidal Wave Warningの看板。古い表記の割に綺麗だ。少々”突破”されてしまったが -  岩手県田老

このあたりの地理には詳しい。ぐるりの様子をカメラを持って見に行ってみることにした。

 

※国道45号線 本震災の被災状況を最も雄弁に・・・悲惨すぎるほどに・・・物語るであろう、仙台から青森まで主に沿岸を貫通する国道。この国道が通った沿岸部で被害が無い市町村が存在しないと言って間違いはない。

21 三途の川

再度避難所に着くと自動車が校庭から道路までギッシリと駐まっている。
自分が駐める場所を探すよりも先に、親をおいて主な職場になっているほど近い別宅に非常用の水と食事を取りに行くことにした。

 

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煙は数キロにわたった。道路に立っている鏡に映る煙と、その上空の黒い煙が見える – 宮城県七ヶ浜町 3/12

職場も無事である。波高があと5m以上高ければ届いたかもしれないが、地味な高台にある。
家賃がこの七ヶ浜という土地にしてはやや高い。そこを突っ込まれると、「新しくて綺麗なのはもちろんだけど、津波が来ないからね」と返していたのだが、「へー」と、まるで相手にされない返事をされる。そして本震災以降は「えー」と言うこれまた相手にされない返事をされる。コンビニよりたくさん津波の看板が立つ -私の出身地である- 三陸の深刻な歴史はたいてい他人事であり、そこから学ぶ人間が居ることなど”おとぎ話”なのだ。

地震でやや立て付けの悪くなったドアを開け職場に入ると、地震で割れた食器が散乱している。しかし最大の目的の水、500ml入りペットボトル24本がしっかりと一箱にまとまっていた。水は重要なのでことさら説明するまでも無い。
MRP(直訳すると、食事の代わりに、と言う意味)という非常食もある。これは社宅に常に備蓄されているものだ。MRPとは大抵の栄養が入った究極の粉末である。これも確保する。前日避難所で聞いた「おにぎりが欲しいのか?」という言葉は、おにぎりの類、つまり炭水化物ばかりが手に入るということを予想できたからだった。
これに関しては詳しくは所感で述べる。

避難所に戻ると当然水が無いので困っている知人たちが居る。
「製油所から飛んでる有害物質の雨が降るからあんまり外に出ない方がいいって」
と言われると、
「よしわかった、水やるよ」
と水を渡す。
なにかと水が要る赤ん坊や高齢者が居る家族に何本か渡すと、あとは親と自分の分が残った。ここで仮面でも被って子供たちに配ればかっこいいんだろうが、去年あたり用意しておこうと思ったチタンの仮面はまだ発注していない。

この夜、歯を磨いているのを小学生たちに見られて”どこから持ってきたんだその水!”という訝しげな目を向けられることになる。しかし被災したとはいえ日本という幸運な地では歯磨きは大事なわけで、僅かな水で確実な結果を出すことが出来る。

 

千葉県コスモ石油のガス爆発からも有害物質の雨が振るかも知れない、と出回った情報はよくあるデマ(本来のデマとはやや意味が違うがデマとする)として話題になった。こちらも確かに製油所という点からではデマに近い。私も聞くなり怪しい情報だな、と思った。しかしこんな被災地で、雨や雪の日に濡れるのは風邪を引きに行くようなものである。有害物質に関係無く、明らかにあたらない方がいい。そして”製油所の有害物質”はデマだったかも知れないが、残念ながら”原子力発電所の有害物質”は宮城県を覆ったのである。

製油所から来るにおいは未だに強烈だった。風はしっかりと避難所を覆う方向に吹いている。
空は数キロ先まで黒い。あながち千葉県コスモのガスと違い、こちらは油である。においによる頭痛を有害とするならば・・・雨には関係無いが、有害物質が混ざっていたと言えるかも知れない。

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避難所と火災 – 宮城県七ヶ浜 3/12撮影