24 三途の川

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

「長野・・・」
この3月12日時点で長野県の消防車が到着していた。当日から東北方面の道路は大渋滞で、高速道路も通行止めと化した。
ここに来るまでとてつもない労力が払われたに違いない。深く礼する。

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

「道路・・・だったな」
ヘリからならともかく、道路が破壊されている光景を真っ正面から見る事は珍しいと思う。マスコミが来づらいからだ。

当然津波に道路も何も関係は無い。道路は完全に使用不能な状態だった。ここで自動車はあっけにとられて引き返していく。

 

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宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

波の威力をモロに受ける場所は更地になって何も残っていない。一方、威力がそれなりに弱った場所には瓦礫が溜まる。
浜辺のゴミの溜まる場所を想像していただくとわかりやすいと思うが、軽いものはだいたい波打ち際に溜まっているはずだ。この道路は、瓦礫の溜まる場所を担当したのである。
本来、人が通るためにある筈の道路という先入観がある。その道路を塞ぐ瓦礫は圧倒的なサイズと相まって非現実的である。
街を洗濯機に入れてしまったらこうなるのか。

これから数日ほどでこの道路は通れるようになる。「自衛隊は作業が遅い。民間ならもっと早い」と言われることもあるという。なるほど、数日もかかったと言える。
しかしおそらくそれはこの災害を体験していない、まともに理解しようとしていない、痛みを感じない距離からの机上の空論である。そしてそれを責める気にはならない。(この下りに関しても後に詳しく震災経験を交えて語る)
その発言をした人々はこの瓦礫に何が埋まっているのか考えもついていない。この圧倒的な瓦礫の中に、生存者や行方不明者が絡みついている。しかし人ではない思い出の品々をも彼らは丁寧に手を使って道路際に避けてくれた。

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道路脇に避けられ、主人を待つアルバム – 福島県相馬市 4月30日撮影

自衛隊は「人の復興は物的なものから成されるのではなく、自分たちは決して見捨られなかったという感情的な一体感からなされるものだ」ということを理解し尽くしているようだった。
この”たとえ命が尽きたとしても、災害と戦う”という”徹底した思いやり”の姿勢は多くの人間の胸を打つことになる。

周囲にはコンビニから散乱した酒が転がっていた。ジュースは無いようだ。後に聞くと、避難所でも結構拾った人が居るという。これは警察も自衛隊も「認められるべきリサイクル」扱いをしている。
明治や昭和の昔の津波では”一切落とし物に手を付けるな、自分のものであっても、役人立ち会いのもと確認すべし”という厳しい看板が出ていた頃とは大違いである。

ATMは水が残っているうちに略奪されたという。確かにATMは見当たらない。

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乾いた魚 – 宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影

人と違い完全な海の民である魚も打ち上げられ、虚しく乾燥していた。
津波という現象にとって破壊する対象に一切の区別は無い。

 

 

力が抜けた状態で避難所に戻ると、「原発・・・原発・・・」と声が聞こえてくる。
例の床屋の息子を捕まえると、みんなと同じように
「原発が・・・」
と言う。
「なんだよ、原発って・・・あの女川が?」
(※女川原発・・・七ヶ浜から直線30-40kmに存在する東北電力の原発。宮城県で原発、といえば女川)
女川はやや突き出た高台にあるし、地盤はかなり頑丈である。あんな位置で津波に
あんな場所でもやられちゃうわけ?
「い、いや、福島が」
「あっ」
思いだした。あった。確かにあった。福島にも原発があった。あんな・・・・あんなガラクタ・・・・
「まだ動いてたのか」
「う、うん」

「終わりじゃん」

思いだした。あの人々がフラフラと道路”だった”場所を歩く光景を。
いつか見た、三途の川だ。

 

3月11日

東北と北関東で

太平洋に面した低い位置にあるものは

生まれたばかりの赤子であろうが

海を自由に泳ぎ回る魚であろうが

キャデラックの新車であろうが

一家を支えた漁船であろうが

思いやりに満ちた夫婦であろうが

篤い信仰を受けた神であろうが

30年ローンで購入した新築であろうが

原発であろうが

平等に破壊された

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破壊された町を、製油所から出る黒い雲の下で見つめる – 宮城県七ヶ浜町 3月12日撮影