26 所感 – 津波と三陸

「津波は、時世が変わっても無くならない。必ず今後も襲ってくる。
しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているだろうから、死ぬ人はめったにないと思う」

文春文庫 三陸海岸大津波 (吉村昭  2004)

 

さて私は家も職場も無事で、あまりドラマは無い。
しかもあたかも津波が来ることを知っていたように書いてあるところも散見されたと思う。
おそらく本災害以前に津波を「三陸」ではない場所で語ろうものなら、大半の返事が「ハア?」とか「気を付けておいて損は無いけどねえ」と言うような気のない返事をするだろう。

三陸は東北にあるリアス式海岸で非常に豊かな海として知られる。急激にせり上がった厳しい岩と相まった白砂青松は日本有数の海岸美を誇る。気仙沼より北は国立公園として整備されているため、景観を破壊する物もほとんど無い。いきなり南端のスタート地点、気仙沼にあるその名の通り大理石で出来た大理石海岸からは三越本店のライオンが削り出されたという話から始まる。そこから180kmも海岸美が続くのだ。

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高さ200mにも及ぶ岩壁が続く。海岸線沿いは遊歩道とトンネルがあり、散策できる。- 岩手県 陸中海岸国立公園 鵜の巣断崖 2011年撮影

三陸は陸前、陸中、陸奥(ここでは”むつ”ではなく”りくおう”)3つの国から三陸と呼ばれた。
もちろん、普通こんな地元民しか知らない呼び方はまず流行らなさそうだ。東北で若者に駿河生まれと言ってもあまり通じないだろう。

何故三陸という名前がそれなりに知られているのか?それは漁場が豊かだからではないようだ。それに、リアス式海岸なら日本に他にもたくさん有る。

これは明治にあまりに巨大な津波が来たために、被害地域とスッポリ一致する三陸という呼び名が報道に使われ有名になったのである。
カンのいい方はお気づきの通り、Tidal waveに代わりTsunamiが世界で使われはじめたのもこの明治三陸大津波が大本であるとされる。
津波は三陸という呼び名を有名にし・・・三陸はTsunamiという呼び名を有名にした・・・三陸は本当に津波が「特産」なのだ。

この1896年の明治三陸大津波は38.2mという遡上高、観測史上最大を記録した。
(ちなみに、明和大津波は石垣島に85mという記録が残っているが、観測はしていない)
これが綾里という地区で、現在岩手県の「大船渡市綾里」にある。

 

綾里村に残る石碑を現代語訳すると下記の通り。
「綾里白浜は太平洋にまっすぐに向き、津波の勢いを遮る物は無い。野を越え山を走り、2つの湾の津波が合体した」
「死者は頭を砕き、或いは手を抜き脚を折り、筆舌に尽くしがたい。役場は村長1名を残すのみ」
「数十日経ってから上げられた家族の屍にすがって泣くも、遺体は家族が見ても元が解らなくなっている。頭も脚も違う場所に有るような遺体に至っては悲惨の中の悲惨である」

1933年、また三陸を直撃した昭和三陸大津波は最大遡上高は28.7m。また同じ「現大船渡市綾里」である。
1960年、チリ地震津波が三陸を襲い、またもや岩手県「大船渡市」が最も多い死者を出した。

チリ地震津波は夜が明ける前に大船渡市民の漁師が海の異変の気づき、必死に声を出して住民に伝え、市内でサイレンが鳴ったという。
地震が無い津波はその当時一般的では無く、気象庁は津波が来た数時間後初めて、津波の恐れ、と発表するに留めた。
(ちなみにハワイがこの津波による死者を事前に出しており、この津波の5年前にチリで大地震があったら日本も津波を警戒せよと言う論文が発表されている)

大船渡湾に入り込んだチリ地震津波についてこう述べた人が居る。
「一度入った波が湾内で何度も反射し、水去らず。阿鼻叫喚の様」

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大船渡にとって、明治から4度目の大津波 – 岩手県 大船渡市 市街地 2011年5月4日撮影