27 津波と三陸

私が「経験した事も無いのに津波に用心深い」ようなイメージを持ったとしたら、三陸の度重なる津波への説教が作り上げたに違いない。

私の出身地はその大船渡市だからである。

私がまだ小学生だった頃、父の厄年に送られてきた厄年向けの小中学校アルバムに我が家の家族が乗っているのを見せられたとき、別なページにチリ地震津波のセピアなモノクロ写真が一枚写っていた。家族の写真を見せたかったんだろう父には悪いが、そっちの方が気になってしょうがない。

町が消え去った写真に付けられたキャプションは確かこういったものである。
「みんななくなった うちも、あんたの家も、友達も・・・・」

小学生が触れる破壊として思い出すのは大概の小学校にある「はだしのゲン」(中沢啓治 集英社・週刊少年ジャンプ)の”ヒロシマ”なのだが、私はこの写真にそれに近い衝撃を受けた。チリ地震津波の話は聞かされていたが、これほどのものなのだと。

つまり私が津波を非常に恐ろしいものである、と思ったスタート地点はこの写真であった。この写真に出会わなかったら、わざわざ海の見える建物を職場にしてしまったかも知れない。
カメラを持ち出したときの話に戻ってしまうが、私は全てのものが無事だったのを見て、なるほどカメラは生命の次に重要であり、写真は生命を救いうるのであると感じることが出来たのである。

その後小学校だか中学校だか憶えてはいないが、あるとき、社会科の授業で教師が「フィヨルドの地形は三陸にそっくりですが・・・」と内容の授業をしていた。そのとき「フィヨルドが三陸にそっくりならば、津波大きくなるのか」という素朴な疑問が浮かんだ。
私にとってその頃すでに、津波はサメの生態やクマの筋力と同等の興味深い話題になっていたのである。

私は図書館でフィヨルドの津波を調べていると、1950年代に世界最大級の大津波が発生しており、その遡上高はどうも数値がおかしい。

波高150m以上 遡上高約520m 1958年 アラスカのもの。

(ナショナルジオグラフィック 警告!最大級の自然災害ビッグ4 第2話 破滅的大津波の恐怖 で詳しく述べられています)

チリ地震の5~7m”ごとき”であの破壊力である。
沖縄の遡上高80mオーバーでも脅威としては十分なのだが、アラスカの大津波は「これ以上は来ないだろう」という定義が全く無意味であると教えてくれる。
富士山の6合目に逃げたとしても、逃げないより遙かにマシなのだ。

これ以降、私が「津波。津波は不味い」と恐ろしげにしゃべり、「ふーん」と言われるというやりとりがこの3.11まで続くことになる。

大船渡に先祖から伝わる土地を持つ祖母は、家族が物件の話をする度にこう言う。
「そこは津波が来るところか?」
先祖の土地を守らねばならないが、津波を受けるのは嫌だ、という葛藤にさいなまれていたのだ。
チリ地震津波を教訓に作られたという大船渡湾口防潮堤は最初からアテにしていない。
本震災で、その家は綺麗に消え去った。

祖母は津波の前に(運良く)大往生しているが、
「津波が来るところは決して住むべきではない」
と教えは終始一貫していた。

父は岩手から宮城に転勤のした際、家は津波が来ない(来づらい)高い所に建てた。

(真偽は定かでは無いが話では)仕事では水産関係の工場を設計するときに津波について言う。
「ここは津波が来ますね もうちょっとお金出してこちらの安全な土地にしてはどうですか」
その提案が通ったことはないと言う。
本震災で、設計した工場は壊滅した。

4-5世代以上にわたる長い戦いではあったが、ようやく私の代でほぼ無傷で凌ぐことが出来たことになる。

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大船渡の実家。巨大船舶が家を突き動かし、道路復旧の場所に不都合があるところに飛び出たため破壊され背後の瓦礫になった。 – 岩手県大船渡市 2011年4月30日撮影

(※やや間が目立つパノラマになっています。ご容赦ください)

(前話)冒頭の三陸海岸大津波からの引用は最後のページのからだが、三陸に住んでいると、やはりみんな同じこと考えてしまうわけだと、妙に頷けたのである。