28 所感

不安定なところにノートパソコンを置いたとする。
そして明らかに危険だと解るとてつもない地震が来たとする。

そのとき、真っ先に逃げるだろうか?それとも、ノートパソコンを押さえるだろうか?
私は多くの人がノートパソコンを押さえると思う。
何せ、自分が死ぬ想像をして避難を考えるより、ノートパソコンは落ちたら不味いモノだとつくづく知り尽くしていて、それを真っ先に押さえる方が手順が明確で、定期的に落ちそうな、落ちたらまずいモノをつかもうとする実践をしているからだ。
それがノートパソコンではなく文庫本だったら、無視するだろう。

私は避難にに対して崇高な判断能力があったわけでは無い。ただ単に、家の海抜ならまず安全だろうと思えたから、家に置いたモノに対して安心して逃げる事ができた。つまり、モノに対して油断できたのだ。
もし本当に津波が届きそうだったら、慌てて持ち逃げするモノを決めたに違いない。どんな水でもものすごい勢いで流れてきたなら、今まで手に入れてきた物質的なモノは、全て消滅する。津波など経験した事はないが、それだけは解る。

人は油断をする生き物である。油断は絶対に無くならない。ならば、先々油断してもカバーできるようにおけばいい。そして今回油断できる場所に家があった。

津波てんでんこ「お互い心配しないでバラバラに逃げろ、家族も同じように絶対逃げきっている」というのは、家族に安心出来る、つまり油断できると言うことではないか。

私が長々と所感を使って油断というものに言いたかったことは、
「油断はするべきではないが、決して無くならない。
失ったらまずいモノこそ、今、油断してもいい状態にしておけ」
と言う事である。

古人曰く、「備えあれば憂い無し」と。

 

■その後の世界 まえがき

誰かを助けようとして死んだ、というと美談になる。
モノを取りに行って死んだ、と言うとダメなことの筆頭になる。

しかし失いたくないモノを助けようとした結果となると、私はどちらも美談だと思う。
なるほどあれもこれも持とう、と言うと浅ましさを感じるかも知れない。

大切なモノを失ってしまった人間はどうなるのだろうか?
これは「警報を信じない」「津波の高さを侮った」「見てから逃げて間に合わなかった」ケースと少し違ってくると考えている。こちらは無知は大罪(得られた結果は、死)だ。(何度も言うが、責めることは出来ない)
津波が来ると確信したからこそ、人やモノを助けて逃げようとしたのではないか?
持って逃げられないモノもある。自分の会社の工場であったり、家だったりする。それは失ってはならないモノだが、絶対に持てないのでその場では諦めが付く。
しかしその後、絶望を伴うのである。

自分の命が一番!助かるのが大事!貴方が世界で一番尊い!という考えの方には理解しがたいと思うが、モノは生命より大事なこともあるのだ。モノを失った未来を想像するより、ここで共に死のう、とすら思う人間は多い。
たとえば仕事に五体で再起できる年齢や技術職なら大抵が自分の能力があればそれがモノとなりなんとかなる。しかし再起できないと思い込める年齢、また端から見ても希望が持てない年齢で積み上げたモノが全て消失したらどうだろうか。

最近流行っている本当に必要なモノ以外全て捨てていくライフスタイルがある。
このライフスタイルは私も好きだ。わけのわからない”モノ事”に右往左往せず、捨ててはならないモノ(お金、技術、会社、思い出)を大切に扱い、または磨くための考えである。

だが、失ってはならない、生き甲斐を伴うモノを奪われた人はどうなるのだろうか?

ここからの話は、その後の世界になる。
被災と考えると、”奇跡の生還!人助け!家族が死んだ!家が無くなった!悲惨だ!頑張ってる!電気無い!水が無い!酷い!日本人は我慢強い!”
そんなイメージがあるかも知れない。

私は家も職場も残して被災に触れることが出来た。この経験が無かったら、災害に対して一生勘違いをしているところがあっただろう。
経験、また図書も参考にしてあるが、参考部分や伝聞部分は必ずそれを示す旨を入れることにする。

私と聞いた話と違う!と思った方は、おそらくそれも正しいが、決して一例で済まない状況を憶えて欲しい。
災害者には色々居るのだ。

災害後の弱者
一般的被災者
サバイバー
災害後の強者
主に社会的インフラのみの被災者
現地に居ないが、家族などが被災した人・・・

また、今回様々なことを思い起こすに当たって、(よくこんな憶えているな、と突っ込まれることがあるが)特に人を自分の印象や思い込みでくくらないことに細心の注意を払っている。
(思い込みは、今回かなり打ち砕かれた)

ようこそ、その後の世界へ。