引用版のサービスを終了しました

ウェブ魚拓の引用版(画像化して一部をクリップするもの)について、サービスを提供終了させていただきます。

利用者数があまり多くないこと、十分に安定した動作で提供できていないこと、などがその理由になります。

多くのユーザーの皆様にご利用いただいている、丸ごと版(最も初期から続いている通常の魚拓)は今後もサービスを継続して参ります。

今後ともご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

16 避難所

ガン、と嫌な音が鳴る。
具体的に言うと、人間が重力に負けて倒れステンレスの水場に頭をぶつけたとすぐ解る音である。
ストーブの光で輝く瞳が肉食動物の気配を感じ取った草食動物のように一斉にそちらを向く。

音の主は体調不良のようで、さらにたった今怪我をしてしまったようだ。
この災害で私がけが人を目撃したのは初めてである。避難所に入ってからもこのときまで一人も見ていない。
負傷者が死者の数倍に達する地震災害と違い、津波災害はけが人が少ない。怪我を許さない水死が大半を締める。
そのため、けが人に対応するための装備をしてきた県外の救急隊が面食らったと言う話もあるほどだ。

看護経験がありそうな女性に抱えられて高齢の女性が中に運び込まれてくる。

ちょうど一人分のスペースに横になっていた私に向かって、
「すいません、ちょっとの間こちらの場所を貸していただけませんか」
高齢者の引っ張り込んできた女性が言う。

(ん?僕?そう、僕ね 確かに僕は多分この避難所でもトップクラスに寒さに強いからね そりゃ見る目あるね)

単に近いだけだろうが、私は無言でさっさと立ち上がって場所を譲った。周囲は魚類と言うべきか、は虫類と言うべきか、そんな無感情な視線を私に向ける。

それを受けて
(立ち上がるポーズが普通すぎたのかな ほんとに「確かに寒さに強いからね そりゃ見る目あるね」とか言えば良かったかな)
とくだらない事を考える。

しかし、場所を譲るのは絶対ちょっとじゃ済まないだろう。ここから動けるようになるにはそれなりの怪我や体調不良の治療が出来る”目的地”が解ったときではないか。

「お名前を教えてくださいT?Tさん?すぐ救急車が来ますからね!お連れはいらっしゃいますか?」

救急車・・・・

安心させるための言葉で、希望というわらにすがらせるためだろうが
あの津波と火災を見た私にとって、より絶望を
(ばあさん、救急車はまず来れないぞ。そしてここはこの避難所全員が通うトイレという避けられない寒気が来る。私が出来るのはここまでだ。 グッドラック。)
これからこの女性が耐える辛い時間を思うと、目は細まり、眉間にしわが寄った。

「あら、濡れているじゃない。ちょっと外に出させて貰うわよ」
さっさと濡れた毛布を片付けると、足を伸ばして眠れるスペースが生まれた。
女性は合理的、かつ、タフだ。私がどけると我慢強くないな、と言われるだろうが・・・

お連れの”夫”が来たが、悲しむでも驚くでも焦るでも無く、かろうじて立てている抜け殻のような状態である。

さてスペースを失った私は東京ドームの出入り口のように、案外トイレのドアそばより外の方が風が少なくて暖かいのでは無いかと思って外に出たが

!!?!?

29~30時頃だろうか。あまりに寒く言葉が出ずによじれるだけだった。Yシャツ1枚でスキー場に行ったときより明らかに寒い。
これは不味い。入り口付近をウロウロしていると、
「おにぎりが欲しいのかい?」
と男性に声をかけられる。
「い、いや それはいいんですがね」
私の外見上の脂肪はあまり多くない。それでも体脂肪率10%前後は有り、それは70000キロカロリーに達し、余計なことをしたとしても20日間の水分と手に入りやすい塩分だけでの生存を保障している。
去年”たまたま”減量を行う機会があり、それは自分の生存期間にかなり強い根拠を与えてくれる。
そしてこの町は多賀城自衛隊駐屯地が近い。救援は速いはずだ。
おにぎりのような食事は食べ慣れたものを摂らないと不安に思う層、または高齢者や子供などに与えられるべきだ。

しかし一番の理由は、”大きいおじさん”がおにぎりを子供の居る避難所で腹が減ったからと受け取るという、これは私の望んだ大人の姿では無く、そのように自分は(まだ)出来ていない。

話しかけられた男性に聞きたいことを聞いてみた。
「実は火災収まったとかそういった(都合のいい)情報は」
「いや?解らないのです 火事ですか?避難指示が出ているのですか?」
一蹴である。

朝までこの気温でこの服。耐えたとしても低体温症で寝込むと言った事になりかねない。
何かいい方法は・・・

避難所の周りを見渡すと、体育館につきものの2階の観戦用廊下が目に入る。
(これはもしや)
2階に上がる。数人居るだけでガラガラである。しかも暖房が上に上がってきて暖かい。
イェルサレムはあったのである。
(※エルサレム、キリスト教等の聖地だが、あるいは約束の地、天国を意味する)

床はやはり硬いが、気温が高い。
ゆっくり寝れそうだ。

なんだかずいぶん長い1日だったような気がする。
お休みなさい。

 

 

1時間ほどしただろうか。避難所を担当している一人のような人から声をかけられる。

「起きてください」
「え?」
「ここ(2階)は閉めます」
「ほ、ほほう なるほど 閉めるね なるほどね」
イェルサレムは無かった。

さっさと立ち上がると、とても頭がガンガンする。常にかき氷を食べている感覚。
低体温症の症状だ。

とはいえ、倒れた女性のそばに無理矢理割り込む気にはならない。
外には朝日が出ていた。家に帰ることにする。私には―焼けるかも知れないが、家があるだけ、そこに居ろという声かも知れない・・・

2階をさっさと早歩きしていると、明るくなったからか、校長を名乗った女性が挨拶をしている。
「左手前のブルーシートに座っている子供たちを見てください。まだ両親と連絡が取れていない子供たちです。みんなで一緒に乗り切りましょう!」

 

ブルーシートの面積は広い。

15 避難所

避難所となっている松ヶ浜小学校体育館の中は薄暗く、人がギッシリと詰まっていた。

外と違い、明かりはストーブ数台。
その赤い光に照らされた人のが闇に浮かんでいる。

人の入れるスキマを探していると、ちょうどカドに何故か一人がギリギリ横になれるスペースがある。
ここにお邪魔をする事にした。
そして何故こんなスペースが空いているのかすぐに解った。

津波前の当日朝の七ヶ浜に最も近い塩竃市の気温は最低-4度前後で津波後不明。
風速は3から4m。湿度50%。 体感温度は-11度から-15度に達する事を意味する。(今聞くだけで寒い)

トイレにつながるドアがすぐそばにあり、しょっちゅうこのドアが開く。直線上に体育館の出口がある。
重く冷たい風がそのたびに真っ先にここに命中する。

この通気により、避難所でここが一番寒いと言っても決して過言ではない気すらする。 これは確かに空く。

あまり高くないスキー場ではYシャツ一枚で行動可能な私にとっても異様に寒い。
もっと厚着してくりゃよかった、と考えても遅いのである。
しかしいつか経験した箱根駅伝応援の復路出発に学ランで待機するよりは寒くない。
(こんな寒い場所を割り当ててくれて光栄だね!他のヤツなら死んじゃうだろ!)
そんなくだらない事を考えて奮起していると、親と毛布にくるまった子供が「寒いね」、と言う。親が「うん」、と言う。確かに寒い。 突然
「閉めろ!さみいんだよ!」
と怒号が響く。 トイレに向かうドアはたいして高価ではない引き戸のため時に開けっ放しになるのだ。
(良く言った!)と言う顔多数。
女性が開けっ放しにしたドアを慌てて閉める。

一方、ストーブはそばが熱すぎてドーナツ状に開いている。適度な距離をとってぼーっとする人や寝る人がいる。これも格差とか言い出す人が居るのだろうか。

姿勢を変えようとすると、どういうわけかずぶ濡れで冷え切った毛布が触れた。油断した体制で居るとこっちまで浸みてくる。
(なんでこんなものがあるんだ。外にあるべきものじゃ無いのか)
一瞬外へどけようと考えたがしかし、もしかしたら”とても大事なもの”を包んできたのかも知れないと思うようになった。
私の今居る場所は ―今は正確に知らないが― 海側にある裏口から物を運び込みやすい場所だった。
( ここは最初から空いてなかったのか )
そう考えると、この毛布も外にどける気にはならなかった。

姿勢を落ち着けてゆっくりしているとずっと妙なチャイムが鳴り響いているのに気付く。避難所の各所に設置されているラジオから鳴っている緊急地震速報の音だ。当初、間抜けなことに携帯のメール着信かと思っていたが、この歳になるまでテレビやラジオで聞いたことが無かったのである。
チャイムはずっと鳴っている。この音しかラジオから聞けないのでは無いか・・・そのくらいに。

震度4以上62回 ――東北地方で障害を起こしていない震度計だけでの3月11日-3月12日に起きた地震の観測結果。 平成23年7月20日 気象庁地震火山部発表。

ときおり、天井からカラカラカラ・・・・と音が鳴るようになった。
明かりで照らされる体育館の天井を支える大量の鉄骨はどう見ても少々の揺れで壊れるようには見えない。
実際はカマボコ状の天井に少々積もった雪がストーブの熱に溶け、滑って音が鳴っているだけだと考えられる。
しかし終わらない緊急地震速報に不安を憶えていたのだろう。何の音だ?崩れるのか?と天井を見る人も居る。

ラジオがチャイムの合間に言う。
”・・・・荒浜では200体から300体の遺体が発見されたと県警が発表しました・・・”

昼間に話した床屋の息子が
「荒浜で100人以上の遺体が見つかったとか」
と言っていたのを思いだした。想像できないが、どうも本当らしい。そしてこの数は足腰に難がある人間の数では無い。

「津波で健康な人も死ぬのか・・・・そうか・・・・・」
私は前も述べたとおり、この日まで今時津波で多くの死者が出ることはまず無いだろう、と思っていた。

3月11日は25時を回る。

一変して涼しい夏に

撮影班です。窓を開けているだけで十分に涼しい夏になってしまいました。
エアコンが悪者の時代のように語られる昨今、心強い味方になるのではないでしょうか。
しかしこの涼しさをもたらした自然現象は福島と新潟には厳しい結果になってしまったようです。

涼しそうです。

14 避難所

「まるで被災者扱いだね。焼けなかったらまた会おう。家」

fired

 

何も持って行かないのは消防団からの指示の他に、製油所はこの区域から結構遠いように見え、よほど派手に爆発してもここまで火が届かない気がするので家財は大丈夫だろう、と考えていたからだと思う。
私は逃げろと言われてるから逃げてるだけで、あまり危機感は無い。
「爆発ってすでにしてるんじゃないのか こっちまで来るとは思えない」
私の認識はそんな程度だ。

この日の火災は後に見る事が出来た当時の記事でマスコミ各社が誤報をしていた。
「仙台製油所、低温LPG爆発」
実際は製油所の低温LPG付近の火災と爆発である。低温LPGは爆発していない。
(この震災における誤報はかなり多く、現地で情報は非常に混乱していた)

真っ暗な道を小学校に向かう人々は主婦と子供、また坂を上がってくる大量の製油所の人々だ。なんだか(まるで遙か昔のように思えるが)昼間見た階段を上がってくる発電職員を思い出した。
必死に逃げる主婦とついて行く子供は、子供は最優先!という母親の強さを感じる。

成人男性や老人はあまり見ない。
多くの労働者は仙台港に働きに行っているため、まだ浸水で戻って来れていないのではないか。
また、老人はこういうときに逃げない人が多いようだ。
後にこのとき何をしていたかと聞くと、「おりゃー避難してねえ」と答えた人々は多かった。

さて避難所である6年間通った小学校に着くと、小型発電機の音がたくさん聞こえてきた。
たくさんの人がウロウロしている体育館前にはベニヤのついたてが立っており、それを安否確認の紙が逆立ったウロコのようにギッシリと埋め尽くしている。
この状況でもしかし体育館の外には電球が輝き、中には数台のストーブがたき火のように灯っている。
てっきり真っ暗で寒いと思っていた私は「なんて展開が速い、凄いな日本」と思ったが、どうも後に聞くとこの七ヶ浜町の避難所群は「最も恵まれた避難所たち」だったとのことだ。

しかし上空に残念な光景が広がっていた。そのときの自分の残念そうな表情はかなりのものだったと思う。
西が僅かに火災で赤いだけで、停電のせいか妙に綺麗な星空。
風が少ししかなく、空気に揺れるだけの小さい雪。

放射冷却。
こいつで固まった日の氷は硬くて、小学生の頃は良く滑った。
これから1月2月の寒さの長い夜が始まる。何人も死ぬだろう。

ウェブ魚拓メンテナンス終了しました

予定を12時間以上上回ってしまい申し訳ございませんでした。

無事メンテナンスを終了致しました。
引用版はまだ完全に反映が終了していませんが、通常の取得や閲覧は問題ありません。

ご迷惑をおかけ致しましたことをお詫び申し上げます。

ウェブ魚拓緊急メンテナンスにつきまして

いつも当社サービスをご利用戴きありがとうございます。
ウェブ魚拓よりお知らせです。

本日12:00頃よりウェブ魚拓の緊急メンテナンスを行います。
期間は24~32時間ほどを予定しております。
ウェブ魚拓のページにアクセス出来ず、ページが見つからないと言う表記になってしまいますがご了承ください。

お手数おかけしますがよろしく御願いします。

13 消防団 – 志願兵(ボランティア)

「にいちゃん、こっちの方がよく見えるべ」
軽自動車を止めて火災の様子を見ている中年男性が草木をかき分けて言う。
「え はい 草で隠れてる穴があるので気を付けて下さいね」
ここで20年前に一緒に遊んでいた友人が分厚い草に惑わされ足場を踏み外し落下、骨折している。
カメラを回すと男性は言う。
「菖蒲田の友人んとこさ行こうと思ったんだけど水でいかれねすぺ」(行けないでしょ)
「・・・・・ええ」
菖蒲田・・・
「ガソリンスタンドの隣にあるんだげど」
「ええ・・・・・・」

22:30頃だっただろうか。
地元消防団の消防車がサイレンを鳴らし”製油所で火災が発生しました、爆発する恐れがあるので何も持たずに徒歩で小学校に避難してください”と繰り返し始めた。
聞いていた話の通りだな、と急いで写真を何枚か撮影し、素直に指示に従ってカメラを置き携帯や鍵程度以外何も持たずに徒歩で避難を始めた。

この避難指示は町内放送を伴っていない。この時点で疑問点はあったのだが、後に調べると正式に製油所から町へ避難指示を出して欲しいと要請があったのは翌日だったということである。
つまり消防団の避難指示は言うならば彼らの”自主判断”である。

 

消防団

消防団は地元民で形成されるボランティアである。給料は無い。タダ働きだ。
消防団は交番の警察官と同じく最初からそこに居るので、災害が緊急事態が発生したときに避難を呼びかけ、言うならば人々に緊張感を与える。
そして災害を食い止めるために戦う。その後、捜索や救助も行う。

自衛隊は可能な限り素早く展開するが、その場に最初から居るわけではない。捜索、救助や支援が主な活動内容で、安心を与える。
消防団とは比べものにならない予算と訓練で能力も高い。当然長期にわたって活動でき、感謝の度合いも高い。

消防団があまり恵まれているとは言いがたい。火事が起きれば時間を問わず跳ね起き、鎮火し消防署が帰っても消防団は残り、乾燥注意報が出れば町内を回り、イベントがあれば警備をし、地元の安全に気を配る。
そして安全対策という仕事内容から責任の度合いは重い。たとえば災害時最適では無い避難指示をしてしまったとき、そして何かが起こったとき、どれだけ責められるのだろうか。
ところが地元住民は普段から「暇人」と言う程度の関心しか示さず、あるときはサイレンで子供が起きたと文句を言われ、非番のときは酒を飲むのが見つかればそれで消防団が務まるのか、と文句を言われる。完全なる滅私奉公だ。

これから紹介する彼らの働きを記憶せよ。

 

岩手県大槌町では住民に避難を呼びかけ、最期まで津波が来ても半鐘を鳴らし続けた。11名が死亡した。
彼らにも守りたかった家族や生活があるだろう。しかし一人でも多くの人々を逃がすために津波と戦いを続けたのである。

otsuchi_firefighter  うち捨てられるように破壊された消防車を沈んだ日が青く染めた – 岩手県大槌町役場前

同県山田町でも住民の財産を守るために水門を閉鎖、逃げ遅れている人々の救助などを行っている間に9名が死亡した。

 

tarou_firefighter  正面から見ると元が何だったのかわからないほどの破壊を受けた消防車にヘルメットが転がる – 写真は岩手県田老で

消防団員は自分の全てを賭けて役割を果たそうとした。そして今回も確かに果たした。
死は必要性やヒロイズムなどでもたらされたものではなく、この”化け物”を相手に一歩も引かずに戦いを挑んだというその結果に過ぎない。そして彼らはそこまでしてくれたのである。

ootsuchi_gate
“化け物”は鉄で出来た分厚い水門を易々と貫通し転がした – 岩手県大槌町

この光景を記憶せよ。

それが仕事だと言う人も居る。
確かに消防団員になって真っ先に逃げてしまったら一生後悔するだろう。
子供はいじめられるかもしれない。”消防団員になったら”使命感からほとんどの人は逃げないに違いない。
しかし彼らは自主的にその立場を買って出ることが出来た存在だという事を忘れてはならない。

 

私が何を言いたいのかというと、彼らに素直に従うべきだということだ。
我々が安全でなければ、彼らは避難できない。
消防団員を生かし、また殉職者を活かすのは一人一人の防災意識である。

東北六魂祭

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凄い混みようで何も見れなかったって人多かったようです。

このパレードが行われた常禅寺通りは仙台なだけあってビルが周囲に多いのに加え、パレードの距離があまり長くなかったことからかギッシリと人が詰まりました。

一度きりの祭りというのもあるのかも知れません。

混みようだけフォーカスされるお祭りでしたが、混んでいるは承知の上。だいたい、祭りが混まないようだと終わっています。

さすがにこの混みようだと悲鳴やヘルプなども上がっており、運営が慣れていないお祭りにどうしても行きたい場合、肋骨が折れない十分な体力、トイレに行かなくていい程度でかつ十分な水分・・・等と行った自己防衛が必要でしょう。

特にご老人・子供にとっては、かなり危険です!

私は野菜○活を爆発させた不届き者が気になりましたが、この混みようはとても楽しかったです。

大津波 12

 

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火災 – 宮城県七ヶ浜町 3月11日撮影

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爆発 – 宮城県七ヶ浜町 3月11日撮影 (Nikon D3S Nikkor 70-200mm F2.8 made in Sendai)

 

20:00頃爆発音発生、火災を確認したため所員は所外へ避難 (JX日鉱日石エネルギー 仙台製油所 ニュースリリースより)

 

「地獄だ」
(瓦礫の中取り残された家族の安否確認を行いにきた仙台市民が、この爆発を見て話した。 サンデー毎日増刊 東日本大震災より)

 

 

「やっぱりやりやがった」
音と同時にガバッと跳ね起きると、製油所方向の西の空が赤いのが窓から確認出来る。どうやら2011年3月11日はまだ終わらないようだ。
外に出ると停電の影響で普段より暗い。
去年たまたま富士登山に誘われたときに用意しておいた登山用装備の(高級な)ヘッドランプが役に立つ。
製油所がよく見える丘に向かうと住民が集まっている。(よく考えると危ないのだが・・・)

私が爆発音を認識したのは21:50頃。発表とはややズレがある。
音は製油所の爆発、また真っ赤な見た目から想像する映画で見るような鈍さを伴う音では無く、勢いを感じさせる”バーン”という音である。
かなりの回数爆発音がしたが、何回その音がしたのかは解らない。
今までこの製油所でのボヤは何度かあったが、今回は桁が違った。

住民も各々携帯で写真を撮ったり会話をしていた。
「仙台港も終わりだ」
「これは消えねえ」
「手の付けようがねえ」
ここは瓦礫に覆われてない高台で、下には海水で下りる気にすらならないため生を知らないこの地区住民から地獄だというような表現は聞かれない。

まるで生き物のように有機的で巨大なコンビナートは、人間の技術の粋を感じさせる。
子供の頃参加した少年野球はこの製油所の敷地内で練習が行われ、さらにマイクロバスでこの製油所を見学したため、多少ではあるが中を知っている。
血管のように目的を持って密集し配置された鈍く光る金属のパイプ群。
それらが開けたスペースにしっかりと磨かれた消防車が何台も収まっており、緊急事態への備えがなされている。(だからこそボヤで済んでいたのかもしれない)

あれらが全て破壊されたのだ。

製油所の作業員は後にこう話してくれた。
「おっしゃるとおり、津波で緊急車両は使用不能になりました。我々は一切手を出せませんでした」

いくつか妙に思っていたことはあった。
ヘリの音はたまに聞こえるが、出会ったマスコミはミヤギテレビの車両1台のみ。
この町がこんな災害にあってもマスコミが来ないというのは異様なのだ。
また、地元の消防団以外出会わない緊急車両。

この町の災害には対応するに及ばない、もしくは対応できない。
そして人間の技術の粋であるコンビナートが人間に制御出来ない。

それは希望的な予測を全て諦めさせるものだった。2つの理性は1つにまとまろうとしていた。

地図が変わるほどの、決定的な津波が来たのだと。