43 電気復旧

3月19日

電源、ネットワークから切断されたサーバを復旧させる当社の人物が東京を出発。
山形の空港に降り、そこからはタクシーになる。

羽田空港。
”妊婦の方、赤ちゃん連れの方、体の不自由な方の優先的なご搭乗よりご案内致します・・・・”
そこで白人系の人物がスックと立ったという。

(※以下、実際は英語)
「どう見ても男のアンタ、妊婦かい?」
「ノー」
「じゃあ座っててくれ まだ妊婦やら体が不自由な人やらの搭乗タイミングだ」
「ありがとう、うっかり乗り込んじまうところだった。俺はカナダから震災を取材しに来た記者だ。アンタは?」
「津波を浴びた地区に会社があってね、今からそのフォローをしに行くエンジニアさ」
「マジかよ!向こうについたら、タクシー、ワリカンで乗ろうぜ。但し、領収書は俺のモンだ」
「OK」
「最高だな、ツイてるぜ」

そんなやり取りがあったという。
東京・仙台間はそれでも20万円を超えた。
通常の20倍以上である。

ガソリンはリッター1000円で7倍だったので、なるほどモラルはさておき1000円で買って迎えに行った方がコスト削減できたかも知れない。

3月20日

サーバ担当と合流。町内を軽く歩き、被災状況を見る。
サーバーを復旧するため、電気とインターネットが繋がる場所に持って行く事となった。

電気復旧は単純で、必死に電柱を立て直し、電線を引き直す。不釣り合いに真新しい電柱が廃墟に立つ。

shizugawa

壊滅的な状況だが、電柱だけ新しいことが確認出来る 南三陸町 志津川にて

県外の車から降り、電柱を1本1本確認している黄色いヘルメットに
「どうですか?」と聞くと、
「こちらはもしかしたら今日中には」という返事が返ってくる。

しかし実際は電気はなかなか復旧させることができないようだった。
本来陸地で田んぼだった土地が海になり、それを挟んだ対岸はすぐ電気が来ていたようだが、こちらはその海になった部分で非常に厳しい被害を受けており、「厄介」とのことだった。

WEDGE 2011 6 インフラ復旧の物語 にその厄介さが詳しく書いてあるので、引用しつつまとめる。

電柱がどこにあったのかも解らない状態であり、電柱の設置は住民の許可が出なければならない。
ドリルなどは使わず、作業は手作業だったという。
「機械で掘って、この泥の下に遺体があったらどうするんだ」
浸水地域で新たに掘った穴からは水が噴き出す。

町内を歩いた帰り道。

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七ヶ浜内で撮影したイメージです

「おい、見ろ」
サーバ担当はどうもピンと来ていないようだったが、この地とっては非常に大きい出来事だった。
「灯りがついている」

この地に灯りが戻ったのは幸いにしてわずか9日後のことである。
水道復旧は4月初旬~中旬、インターネット復旧は5月中旬を待たなければならなかった。

42 七ヶ浜町

宮城県七ヶ浜町 人口2万超 浸水範囲約38% 死者102名 行方不明者5名(2011/11現在)

■参考になるケースなど
七ヶ浜は町民が自ら防災マップを作ったばかりであり、当日ラジオなどの情報を頼りに津波の高さに合わせ避難場所を変えることが出来たといい、人的被害が大きくなることを防げたケースである。

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海に見えるが、ここは海ではない。 3/18

湊浜
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常にヘリが飛んでいた。この浜には大量のカップラーメンが漂着。3/18

松ヶ浜
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友人宅。破壊力が強すぎ、何も痕跡は残っていない。 「確かここだったはずだ」 3/18

菖蒲田浜
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津波は非常に破壊力が高く、地区が洗濯機に巻き込まれてしまったかのようだ。3/12

花渕浜
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被害甚大。自衛隊が速やかに道路を通した様が確認出来る。3/18

代ヶ崎浜・吉田浜(私が避難した多聞山から見える範囲)
連載初期に説明したとおり。被害甚大。

東宮浜は震源に対し裏側なので、表側にくらべ被害微少。水位上がったのみ。

この日とは異なるが、菖蒲田浜には砕け散った防波堤の隙間から抜け殻のように海を向いて座り込む同級生がいた。
東日本大震災-194
※画像はある被災地で撮影したイメージです。このままを想像していただければ幸いです

「なんだか、こないだの同窓会からすぐだな ハハハ、こんなことになっちゃって。こんなことになったから、すぐあえたのかな ハハハ」

乾いた笑いだった。

画像説明

トップは蔵王です。

今の真冬にいった場合、こんな姿にはなりません。さらに凍っています。
これは5月のゴールデンウィークあたりの時期になります。寒そうですね。寒いです。
しかもお釜は凍っているので、山頂は寂しいです。
登るまでは雪の回廊になっており、それはそれで人気があるようです。

寒くて手が震えます。

41 日常

3月16日

家族は主にDocomoユーザであり、復帰と同時に各地に連絡をしようと試みていた。
前日のAUは電池が力尽きている。

発電機がいくつもある避難所に行けば充電は可能である。携帯の充電用ということで、いくつもコンセントがあり、「ご自由にお使い下さい」充電器もたくさんある。
ただ、その並びに入るほどの緊急の用事は我々にはない。

どうにか電池やこのときまだバッテリーが生き残っていた自動車から電気をかき集めての連絡となる。

父親は親族が全員無事なのを確認。実家は波で運ばれてきた巨大船舶が衝突し道路に押し出されたため、緊急車両通行を優先し14日に解体したとのこと。
母親は親族全員の安否が不明。

しかしキャリア40年の看護師である母親は少なくともいつもと全く変わらず、なんというか、微動だにしない。
逆に実家にある先祖の位牌を失ったであろう父親がストレスを溜める。
(もちろん、他にも色々な要素がある。原因を確実に減らしていく前に一つだと思い込むとえらい目を見るのと一緒だ)

「くそっ なんて薄情な奴だ」
「考えてもしょうがないでしょうが」

そんなやり取りが展開している。

3月17日

かなりの量の雪が降った。トイレ用の水などを手に入れるためどうにか効率的に水を集める事を考えていると、「雨とい」をノコギリでたたっ切ってその下に大きいタルを置くことになった。
タルは180リットルも入り、3つもあった。これはトイレの水にしばらく困らない事を意味する。

たまたま役に立ったが、こんなものがあるような家だと当然庭が片付かない。
そして最大180kgを・・・誰が持つって・・・
神妙な顔でタルを見ていると、
「バケツでくみ出せばいいじゃん」
と一言言われ、我に返った。

放射性物質を多分に含んだ雪であるとまことしやかに情報が流れ、みな雪を警戒した。

3月18日

弟が居住地の岩手県盛岡市から支援物資を持ってやってきた。勤務している会社は盛岡市という土地柄家族が被災地に居ることが多いため、緊急に休みにして家族を助けに行けと指示したという。
交通手段はバス、タクシー。核家族のレベルでは全員揃ったことになる。

運んできた支援物資は水だけで70kg、他にウエットティッシュや食料。全ての重量で90kgを超える。
むろん一人だ。交通手段の大半が自動車だと思えず、信じられなかった。
私はこれだけの重量を持って人間が移動できるものなのだと強いショックを受けた。

弟は言う。
「同じ事がもしあったとしたら?もうしないだろうね」
弟はこの後座り込んで暫く動こうとしなかった。

この日、「犯罪」シリーズで行動を共にした連中が立ち寄ってきた。
雪も止んで天気も良いので、七ヶ浜がどうなったのか自転車で見て回ろうか、という話になった。
ちなみに、ラジオは原発以外、非常に少しずつ情報が増えて行くのみで、まだまだ南三陸町の住民半数が不明なレベルだった。

緊急車両が通らない道路は全く整備されず泥だらけで、落下物が所々にある。いわゆる「波打ち際」に瓦礫は貯まるもので、波がものすごい勢いで突き進んだ場所の道路は家々があった場所と異なり瓦礫はあまり無い。
所々水たまりがある。これは平時の先入観念では浅いに違いないと思うが、地盤沈下を伴った地殻変動がアスファルトを深く凹ませている可能性があり、これはつまらない踏み込みのレベルだが悲劇を生んだ。

このような道路は自動車も人も歩道車道の区別なく歩く。時折警察が道路の真ん中に立っており、自動車の運転手に目的を聴く。

アスファルトではない道路を砂埃を上げながら濃い排気ガスを上げる三輪車が印象的な昭和をイメージしたアニメのような、不思議な感覚である。そして真上や真下など不自然な方向を向いた自動車や人々が一様に手に持つバケツやタライがさらに不思議な感覚を与える。

謹賀新年

こちらでは多くを語りませんが、旧年中は様々なことがございました。
本年もよろしくお願い致します。

40 携帯電話 - 通信キャリア

 

!警告 特定のキャリアに対し、否定的な内容となっています。
何を感じてもご自身でお考えください。

organ

3秒考えて見てください。
例えば海沿いにいるときに地震があったとします。
この状況で電話が繋がらなくなった場合、
家で待っている子供がいたら何が起きるかを。

 

これはただ「あった」ことと、「考えられる」ことを述べるだけで、特定の会社やキャリアを貶めるのが目的ではない。
とても悪く言ってるように聞こえてしまうかもしれない。

こういうのを語らなければならないのは、余り好きではない。ただ、今回はストレートに書いて、こう言う結果になっただけだ。

 

私は仕事柄、この当時3キャリア持っていた。過去形なのは、今は全3キャリアを持っていないからだ。

3月11日
私のメインであるドコモがこのとき何時まで繋がっていたのかを確認出来る手段がある。
最後に返信したのが12日0:00頃で、約9時間繋がっていたことになる。(これは非常に重要だった)
前述の通り、メールより情報確認が早い(=電池の持ちがいい)ツイッターは重宝した。

ドコモが通じたためAU・ソフトバンクは震災直後は実際に確認していないが、
「ソフトバンクの震災直後の不通は突出していた」※
そして私の周辺では、AUの接続状況は最も評価が高い。

この間、
AU、11日中に現地に向けて移動式基地局を打つ。例によって、道路もガソリンもない状態である。
ドコモ、11日中に自衛隊に電波が繋がる衛星携帯電話を貸し出し。毎年、ヘリに衛星電話を乗せての訓練で連携している。
衛星電話の販売はこちらを優先し、見合わされた。(ドコモ プレスリリース http://www.docomo.biz/html/notice/20110316.html)

ソフトバンク 連絡サイトを立てた? 社長の政治的なツイート? 一つはっきりしているのは、そこに電波は通じないだろうということだ。

 

3月15日

AUが最速で通信回復。仕事における緊急メールを送れるようになる。
最近でも警察から防災、緊急連絡用として南三陸町町民に配られたのはAUであった。

3月16日

ドコモが回復。自衛隊と連携するほどなので、被災地でも強い。
自衛隊は安心して連絡が取れたようだ。 (WEDGE 2011 6)

ソフトバンク いつ復旧したのか不明。

 

 

地方TV局の「岩手めんこいテレビ」が、ウェブサイトで携帯の接続状況でこのように書く。

softbank

(http://www.menkoi-tv.co.jp/anpi/lifeline/index.html)
もし、この表からソフトバンクを取り去った場合、そもそもこんな表を作る必要はまずないと思えるはずだ。
その通りにこの「次」から、ソフトバンクだけのアナウンスになる。つまり、AUとドコモはこの回以外登場しない。
これはただのライフライン発表と考えることも出来るが、他の情報と異なり、ソフトバンクはスポンサーになり得るのだ。これは社会的立場を持つ社会人の方はどれほどのことかを考えて欲しい。

地方ローカル局だからこそ、被災者は全て身内のようなものである。苦痛が実感出来る距離にいる。
それ故に、この激痛下に置かれた人々に全力を向けている。

この食料も薬も無い状況化で通信不通になんの対策も打たない人間が、会社が、どうしても許せなかったのではないか。
私はこの告知が、血の涙に見えるのである。

ある被災者は言う。
「携帯電話が繋がってくれれば、助かった人、もっと居ただろうなあ」

ソフトバンクはそもそも怪しいイメージが合った。

昔ソフトバンクが出資しているY社に就職活動に行ったときに、応対した技術者は言った。しかも、涙目に近い。
「ソフトバンクはお金を出してるだけですから、絶対にあの会社と一緒にしないでください、本当にお願いします」
このとき、何でこんな事を言われるのかさっぱりわからなかった。そんなに怪しい会社なのか、それだけだ。ちなみに、場に居た人が非常に多い中での出来事である。

この会社のやり方というのは、何となく妙なところを感じていた。YahooBBの強引な手口もそうだったが、携帯を契約するときも大手と思えない異質なものだった。
「このフォトフレーム、デメリットは間違いなく一切無いですか」
「ありません」
即答であった。※実際はかなりある

後に読んだ記事では、このように書かれている。

 

一方でソフトバンク社内ではこんな指示が飛んでいるという。「ドコモもauも使えないところは復旧のピッチを特別に上げろ。ドコモやauが使えるところは通常復旧作業でいい」。つまり自社設備がつぶれた場所は他社に乗っかり、全滅地域にソフトバンクの旗を立てて存在感をアピールする。トップは政治パフォーマンスに明け暮れ、幹部は総務省を揺さぶり相変わらずのタダ乗り作戦を練る—-。

なるほど、AU、ドコモ両方ともダメなところを復活させれば、「ソフトバンクの電波を使えることによって、御社も早く復旧できますよ」、というわけだ。
口コミ的にもいいかもしれない。

しかしさすがにそれは邪知しすぎじゃないか?言い過ぎというものだろう。私はそう考えていた。
本当だったとしても、全キャリア通じないところを優先順位あげて、助け合いでカバーするという方向性かも知れない。まあその場合、告知が無いとおかしいか・・・

ある一言を聞くまではその程度の考えだった。

多賀城で被災した兄弟が多い従兄弟連中が遊びに来たときのことである。
「うちか、うち、AU早かったね。ドコモも次の日に来た。ソフトバンクはなんか全然ダメだ

39 所感 – 犯罪 助け合い 日常

 

犯罪もあった、助け合いもあった。
またタバコを求める人間らしい一面が見て取れる。
(悲劇、惨劇はこれからも終わらない)

■犯罪

この当時は
「襲撃や略奪、強盗、レイプなどが頻発し、○○という被災地に支援物資が届けられない」という情報も流れた。
○○には多賀城市や七ヶ浜町、塩竃市が入っているわけだが・・・七ヶ浜は、この話の舞台になっているところだ。
実際は前にも述べたとおり自衛隊は近く、ストーブも発電機もあった。
携帯の充電も速やかに出来るようになった。最も恵まれた避難所ともいわれた。

しかし何故か我々は支援物資を届けに来た連中を襲撃したことになっている。
「これが先進国日本の実体だ!」とかキャプション付けられそうな勢いだ。

正義感?を持った人がどうもこのようなハードな印象を植え付ける言葉を発することにより、「無視しないでほしい」ということを訴え、結果デマになると言う。
このデマの結果、何が生み出されるだろうか?まず間違いなく不安感だと思う。実際、私にも不安感は多少なりともあった。
「ほんとに殺し合いが頻発している状態で、自分が自衛隊員だったら遺体捜索に集中するだろうか?あり得ないだろう?」そんなことを考えるに到っている。

個人的には旅行中の宮古島で悪食で有名なイタチザメに襲われるかもしれないというより不安感は無かったが、(その現場を目視したわけでは無いが)ややオーバーキル(過剰攻撃)気味に戦意喪失した窃盗犯を叩いてしまった事があったようだ。
オーバーキルの不利益については、「社会的に評価されない」ということを述べている。

この状況化で疑われるようなことを決してしないことだ。
自分の家から家財を持ち出す家族などにあうと、
(私の家です、お恥ずかしい姿になってしまって申し訳ない、疑わしいような事をしていますが、ご迷惑をおかけします・・・)
というような表情で頭を下げるのである。
目があってしまったこちらも何となく申し訳ない気持ちになってくる・・・

やはり挨拶とは、自分は敵ではない、と表現する行為なのだろうか。
自分が挨拶に損を感じる時、大抵感情が乱れていることが多いと思わないだろうか?

 

!警告

人間が人間を相手にした時、手を抜けるものではありません。
相手が明確に戦意を喪失するまでは、殺すつもりで行くべきです。
相手が逃げたら追うべきではありません。この状況化では絶対変なクギなんかを踏みます。
病院はありません。

色々な状況があり複雑な話になりますが、人間は人間をなるべく戦いの相手にするべきではありません。
別な所で犯罪を犯すような連中を逃がすのは何か違和感を感じるかも知れません。しかし、それでもリスクが高すぎるのです。

ケンカやそれを越えるような状態になると視界が狭くなり、集中しすぎがちになってしまい、先に挙げたような様々な失敗をします。
自動車の運転と一緒で、動くもの第一、信号・標識第二、ナビ第三・・・・というように、状況に合わせた心構えを決めておきましょう。

平時でも防犯は気を抜くべきではありません。被災時もしっかりと防犯を行いましょう。

「くさいところには、近づくな」です。

 

■助け合い

「カンディード」の舞台となった遙か昔のポルトガルの大地震でも助け合いの様子が書かれている。
「災害ユートピア」を見ると、人々は助け合いをすることしか頭に無い、くらいの書かれっぷりである。

人は助け合うのである。私は残念なことに「この助けようは裏があるのでは無いか」と考えてしまっていた。
舞台は給食費滞納率日本一となった場所である。洒落にならなすぎて口に出せない事件も多々あった。

しかしどうもそんな裏を考えるような状態ではなかったようだ。
紹介したとおり、この七ヶ浜町以外にも身を切るような助け合いはあった。
命を賭けてでもである。

津波の中、アクアラングを付けて被災者を助けに飛び込んだ人もいた。
逃げようとしない人を、津波が迫る中十分以上かけて説得した人も居た。

これほどの助け合いを生む環境に攻撃を加えるとどうなるか?攻撃してきたのは津波?窃盗犯?東京電力?そんな環境だからこそ、致命的な戦いが起こるのではないか?

これを読んでくれている方々も大半は、こういった場面で自分の命を賭けるスイッチが入るはずだ。
助ける側も津波による死が明確に想像できていないのかも知れないので、第二次世界大戦の特攻隊、つまり100%の死と一緒にすることは出来ないかもしれないが、もし、自分が特攻をすることにより津波を0.1%弱めることが出来る、というならば

・・・5回分くらい津波を消せるかも知れない。私はそう思うのである。

「空襲は戦意喪失に逆効果をもたらす 人々は結束する」
戦争における人殺しの心理学 ちくま書房

「我々をもし弱くしたいなら、甘やかせば良い」
災害ユートピア 亜紀書房

「戦争に嫌気がさしていた者も、日頃平和主義者だった者も、今は徹底抗戦論者となっている」
ヒロシマ日記 法政大学出版局

一見全く関係無い「助け合い」と「犯罪」の世界ではあるが、どこかリンクしているように思えるのである。
助け合いも過剰攻撃も、「まずここにいるみんなで生きよう」と言う声が聞こえてくるようだ。

■日常

助け合いや犯罪のような状況化が起きるような事態を象徴するような精神的不安感がある。
家も車もまた家族の命も仕事も奪われた強力な、かつ日常的なストレスはなかなかテレビで表現されるものではない。
結婚離婚が増えたのもストレスに起因するという。

犯罪のパートは終わったが、常時この脅威は続く。
あらゆる方面からのストレスは強力だった。この被災時の日常はゆっくりと述べさせていただく事にする。

38 日常

3月14日 11:01

福島第一原発3号機 爆発

ラジオで入った情報を元に貴重な電気をつかってワンセグを付ける。
窓から見える炎上したコンビナートも相まって、(この日、まだ消火活動に手を付けられていない)壊滅的被害、と言うより、滅亡、というイメージが強くなっていった。

皆この頃口に出しはじめたのは
「福島に比べれば」
「こっちはまだ放射能が無い」
という言葉だった。

子供がいる家では、食べ物に警戒する声が少しずつ聞かれるようになった。

まだこの段階ではメルトダウンなどと言った状況からはほど遠いように報道されている。
今考えれば異常な話だが、この時点では7レベルが最大の深刻度でレベル4とされている。(現在は7)

明らかにメルトダウンに見えるものをメルトダウンではない、と言う。そして人々はそれをなるべく信じようとした。
まさか政府がそんな大それた嘘をつくはずがないと思ったのか、この世界がいままでのままであって欲しいと思ったのか。
窓の外の煙は太いままだ。それどころではないのか。・・・それら全てではないか?

無関係な場所から見れば「ここからさらに追い打ちはあり得るだろうね」とあっさり言えることではある。「そこ」はまだ、「底」ではない。
当事者はここが底であって欲しいと願っている人々がたくさんいた。メルトダウンなどあってはならないと。

「福島は」
「東北は」

この言葉は、後に決定的な断層になったと私は考えている。

 

3月15日

この日の夜、とても悪い夢を見た気がする。
自動車が延々と続く瓦礫の中を走り続け、避難所連絡先のテロップを出しているワンセグの画面を眺める夢だ。
そこは陸前高田市だと言っている。

気がする、というのは
残念なことにそんな夢は見なかったのかも知れないのではなく
夢じゃなかったのかもしれないということだった。

 

原発のニュースばかりで、こちらの情報はめったに無い。
しかし、この3日ころは不明者が生きているかも知れない、死んでいるかも知れないという境である。
南三陸町は住民の半数が行方不明とあったが、徐々に情報が入りつつあり、半数という絶望的な数では無いのではないかといわれるようになった。

テンションが高い幼なじみの母親が来ると、「ダメダメ!ダメだー。」と言う。
遺体安置所に知人を探しに行ったが、まるで見つからないという。
「多すぎてダメ はっぱわがんね(さっぱりわからない)」

多少町をうろついただけの私には、まだ陸前高田の状況を夢と思い込めるほどに、被害が何も解っていない。
ここはただラジオとヘリコプターの音とサイレンの音が遠くから聞こえるだけだ。ラジオの電池は大量にある。
普段からよく使う単四エネループの限定版8本セットが火を噴く。

父親はタバコが無くなるたびに荒れる。この時点では、まだガソリンを取りに行っていない。
「ガソリン・・・ガソリンがあれば・・・タバコを買いに行けるのに・・・使い切りやがって・・このワラス(わらし)」
ストレスが溜まっていた。親族がどうなったのかこの時点では不明だし、実家もどうなっているのか全く解っていない。

しかしガソリンを使い切った(入れなかった)のは確かに大罪である。耳が痛い。

タバコの人気は異常だった。すぐに近所からタバコは消えた。
タバコが落ちていないか、と瓦礫をうろうろする青年や中年、老年も多かった。
泥が付いたタバコを乱暴にポケットに突っ込み、次のタバコを探すのである。
探すときの、或いは見つけたときのあの目の輝きようは言いしれぬものがある。

禁煙を何年も続けて来た人々も、タバコに群がった。
この強力な状況を、タバコが楽にしてくれる。
そんな声が聞こえるようである。
確かにまだ4日目の状況では、家を失った人々が食べられたものはせいぜい塩を振ったおにぎりでおいしい方である。
岩手県釜石市では3月20日の時点でおかずはゆで卵ひとつを5人で分け合ったとされている。※1
黄身の位置を考えると話は複雑になってくるが、譲り合ったに違いない。

この状況化ではタバコは本当に光り輝いて見えただろう。(こう言うと申し訳ないが、私は吸ったことがないわけだが・・・)

父親は我が家の次男が物資をレスキュー時する時にタバコは頼みづらかったようで、菓子パンを要求していた。
しかし無情にも菓子パンは全て売り切れだったとのことだ。

当初は避難所での喫煙のマナーの悪さが際立ったが、だんだんと注意を繰り返されることにより、落ち着いて行った。
この状況化で逆ギレをするクレイジーは少なかったようだ。

※1
おにぎり3つ、ゆで卵1/5、運良く見つかる菓子1/2が「1日」のメニューと記述されている。
釜石では甚大な被害を受けた鵜住居地区より避難してきた人々に、被害を受けなかった栗橋地区の人々が食料を分け、なんとか捻出できた量である。
ここでの食料の確保が難しかったのはガソリン不足であった。被害を受けなかった遠野まで数十キロ、高低差800m。(WEDGE 2011 5)

37 日常

犯罪と助け合いにフォーカスを当てたが、一般的な被災に話は戻る。

3月14日

いつもなら呼び鈴が鳴るはずの玄関ではあるが、呼び声を出す青年が玄関に立っている。朝早い時間だ。
路上生活者と見まごうばかりの汚れた長靴とナイロンの防寒着の上下はこの状況化では決して珍しくない姿であるが、それでもなお頭からつま先まで徹底されたくたびれようは異質である。しかし姿勢はいい。不謹慎かも知れないが、数十年後に戦争から帰ってきた小野田少尉を思いだした。
その青年は父親の部下だと名乗っている。
呼ばれた父親が応対すると、青年は言う。

「すいません、○○、見つかりませんでした」

当時青年は気仙沼に出張していたという。車2台で避難中、渋滞に捕まった。気仙沼はただでさえ渋滞しやすい。

「2日探したんですが・・・」

後ろには何十年も経ったように見えるママチャリが一つ。
この時点では情報がいまいち抽象的にしか入ってこないので、何が起きたのかよくわからなかったが、今判断すると気仙沼までは約120km。そして三陸特有のアップダウンを伴う。そしてその道路沿いは海抜が低くなるたびに壊滅した街を通り、道路寸断は特に珍しくない。2日探し、自転車でここに来たということは、恐らく相当の疲労を伴っただろう。

聞けば○○の車はわずか5台ほど後ろを走っていたという。何故彼は助かり、○○は海にのまれたのだろうか?

「俺の乗ってた車はレンタカーだったんです あいつの車は自分の車だったんです」
つまり、車を捨てる判断が自分の車という理由で遅れてしまったのでは無いか、と彼は言う。
自分はレンタカーだったので捨てることに戸惑わず、すぐ逃げられたのだ、と。

青年は帰っていった。

 

 

宮城県気仙沼市は日本有数の漁港である。
本震災で沿岸部は業火により焼き尽くされた。

この火災の理由はこのように考えられている。
気仙沼には石油・重油タンク群があるが、それらは内容物が満載されていなかったため軽く、水が流れ込んできたときに発生した下から上への水の浮力という想定していなかった力の方向で引き抜かれ破損し、内容物またタンクごと市街地に流れていき発火、大規模な火災につながったという。

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焼かれなかったら無事だったであろう船舶の前に立ち尽くす 後ろには重油タンクが – 宮城県気仙沼市

この「下から上」の力を想定していない橋なども津波により浮かせられ柱だけを残すという状態になっているものも多い。

父親はこの青年を見送った後、津波警報も完全に解除され月曜にもなるこの日、会社に様子を見に行き役員は一人しか来なかったということに腹を立てて帰ってくると、既に定年を過ぎて嘱託として勤める身としては仕事は無くなるだろう、と嘆きタバコを吸い続けた。
この時期の父親のタバコの量は以上で、灰皿に山のように積もりストックが無くなるまで吸い終えると、タバコを求めて徘徊した。
しばらくは片付けの仕事があったが、仕事は今年度末までという結果になったという。

周りには「定年後なのでまだ運がいい」と言われ、さらにタバコの量は増えた。ここにはあまり「共感」は生まれなかったようだ。

一方、母親は勤め先の病院が再起すると言うことで、復職することとなった。

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女川町から準備をするため気仙沼に寄港したマグロ漁船・第三明神丸(上)と第一明神丸(下)
第一明神丸は「焼失」、第三明神丸は復帰した。 – 宮城県気仙沼市

 

ちなみに○○氏は逃げ切って、先に家に帰っていたという。

36 理想郷

 

誰もが誰かの役に立ちたがっていた。引きこもりも外に出て積極的に働いた。
直撃地域では、鬱病患者はどこに居たのだろうか?全く見なかった。
私の知っている鬱病の人物は、災害が終わってしばらくしてから再発したが、この間はやたら幸せそうだった。いきいきしていた。不自然なほどに。

震災直後、生命を捨ててでも人々は人々を助けた。
津波に対してその恐ろしさを知っている人々は停電した水門に走り、逃げられない体の不自由な人々を運び、逃げたがらない人々を説得した。
見たことも無い逃げてくる人々に家や布団を貸した。
犯罪から町を守ろうと、自警団を結成した。
暴走族や不良はこの間、姿を消し、また助け合いに参加した。
ボランティアは、不謹慎になってしまうからと無理矢理充実感を押し殺して帰るようだった。

そしてそれらは全て感謝された。

ごく一部の青空店舗でしか扱わず、液状化と瓦礫、塩水で失われた道路を自転車で長い時間をかけ移動しなければ手に入らない非常に貴重な肉ももらった。
社員だけが買える貴重なガソリンも分けて貰った。
何かいい商品の販売情報を手に入れたら、皆分け合った。

人手が要りそうな仕事で困っていることがあれば、怪我をする危険な仕事でも我先にと志願した。

そして人々はただ礼を言い合うだけだった。その間、みんな笑顔だった。

強力な悲劇と、恐らく人の営みの歴史でいつか失われたであろう純粋な幸福が同居していた。

 

誰もが、つらさを全く同じく共感している。
世の中のあらゆる精神的な辛さは共感によって相当楽になる。

たとえば東京の人にこの惨を3日間説明をして、あらゆる映像を見せても、実際に見る東名高速の玉突き事故の方が残酷に思えるだろう。
酒を飲みながら愚痴を3時間言っても、少し楽になった、という程度なのだ。

ここでは何も言わずともみんな辛さを実感している。目を合わせる必要すら無い。
ここでは何の愚痴をこぼす必要も無い。
ここでは何か別の辛さが起きても、みんなが駆けつけて助けてくれる。
ここではあらゆる競争も、主張される個性も、この直撃期間には全く無かった。

なるほど、みんなで強敵を打ち破るゲームが流行るわけだ、そう思った。

ただ、共感があり、共感しているからこそ、率先して動いて助け合う、そしてそれは全てお礼を言い、言われる。

現在、お礼を言われる「仕事」をするには、評価されるたゆまぬ努力と、他人を無理して押しのけねばならない。そのために受け入れられる個性が必要な場面も多い。
すこしでも楽をしようものなら、一気に落ちぶれていく。
「仕事」がこき下ろされ、全く評価されず、必要とされない自分だけが残る。
必要とされない立場に諦め、甘え、自分でも無理矢理繕う日々を過ごす・・・・・
そしてそれは誰にも理解されない。せいぜいが哀れみの目を向けて優しくしてくれる身近な人物が居る程度で、共感は無い。

決して長く続くものでは無いが、この助け合いを行った時期は、人類の、本来の幸福が共感から生まれる助け合いに有るのでは無いか、と思えるものだった。

 

あるとき、急に大きい樽を積んだトラックが家の前に走り込んできた。
「ッシャッシャ 水だ!」
トラックを運転してきた近所の元気な老人が笑う。

この老人は井戸水を人々に解放していた。やたらおいしく、菌は無い。おかげで飲み水には困らなかった。その中でチマチマ水を運んで風呂を炊こうとしていたうちの父親にまどろっこしさを感じたらしく、持ってきたという。

「おい!風呂さ投げてこい!」
父親は私に向かって言う。
老人は
「一人じゃ無理だべ」
と止めようとする。

70過ぎた老人と60を過ぎた父親と私がその場にはいるが、何かぎっくり腰にでもなりそうな不安がある。何せ水は暴れる。
「大丈夫です」
父親も言う。
「なに、こいつは大丈夫だ」
私が抱える姿に驚いて声を上げる老人。確かに重い。90kg?しかも持ち手のヘリは薄くて、これが食い込む。
巨大な樽を3つも運ぶと、風呂の水は満杯になった。

水道は止まっているから沸かせないぞ、と文句を言う復旧済みのガス湯沸かし器に、少々工夫をして動かす。

その日父親は風呂を近所に解放し、子供から大人まで6人ほど入った後、父親と母親が入ったわけではあるが
「もう水はほとんど無いよ」と母親が小声で言う。
「・・・・・・・・何よりに」

タオルで必死に髪を乾かす近所の少女はしかし、何か気持ちよさそうだったのである。

 

 

水は本当に無かった。

水位17cm。