38 日常

3月14日 11:01

福島第一原発3号機 爆発

ラジオで入った情報を元に貴重な電気をつかってワンセグを付ける。
窓から見える炎上したコンビナートも相まって、(この日、まだ消火活動に手を付けられていない)壊滅的被害、と言うより、滅亡、というイメージが強くなっていった。

皆この頃口に出しはじめたのは
「福島に比べれば」
「こっちはまだ放射能が無い」
という言葉だった。

子供がいる家では、食べ物に警戒する声が少しずつ聞かれるようになった。

まだこの段階ではメルトダウンなどと言った状況からはほど遠いように報道されている。
今考えれば異常な話だが、この時点では7レベルが最大の深刻度でレベル4とされている。(現在は7)

明らかにメルトダウンに見えるものをメルトダウンではない、と言う。そして人々はそれをなるべく信じようとした。
まさか政府がそんな大それた嘘をつくはずがないと思ったのか、この世界がいままでのままであって欲しいと思ったのか。
窓の外の煙は太いままだ。それどころではないのか。・・・それら全てではないか?

無関係な場所から見れば「ここからさらに追い打ちはあり得るだろうね」とあっさり言えることではある。「そこ」はまだ、「底」ではない。
当事者はここが底であって欲しいと願っている人々がたくさんいた。メルトダウンなどあってはならないと。

「福島は」
「東北は」

この言葉は、後に決定的な断層になったと私は考えている。

 

3月15日

この日の夜、とても悪い夢を見た気がする。
自動車が延々と続く瓦礫の中を走り続け、避難所連絡先のテロップを出しているワンセグの画面を眺める夢だ。
そこは陸前高田市だと言っている。

気がする、というのは
残念なことにそんな夢は見なかったのかも知れないのではなく
夢じゃなかったのかもしれないということだった。

 

原発のニュースばかりで、こちらの情報はめったに無い。
しかし、この3日ころは不明者が生きているかも知れない、死んでいるかも知れないという境である。
南三陸町は住民の半数が行方不明とあったが、徐々に情報が入りつつあり、半数という絶望的な数では無いのではないかといわれるようになった。

テンションが高い幼なじみの母親が来ると、「ダメダメ!ダメだー。」と言う。
遺体安置所に知人を探しに行ったが、まるで見つからないという。
「多すぎてダメ はっぱわがんね(さっぱりわからない)」

多少町をうろついただけの私には、まだ陸前高田の状況を夢と思い込めるほどに、被害が何も解っていない。
ここはただラジオとヘリコプターの音とサイレンの音が遠くから聞こえるだけだ。ラジオの電池は大量にある。
普段からよく使う単四エネループの限定版8本セットが火を噴く。

父親はタバコが無くなるたびに荒れる。この時点では、まだガソリンを取りに行っていない。
「ガソリン・・・ガソリンがあれば・・・タバコを買いに行けるのに・・・使い切りやがって・・このワラス(わらし)」
ストレスが溜まっていた。親族がどうなったのかこの時点では不明だし、実家もどうなっているのか全く解っていない。

しかしガソリンを使い切った(入れなかった)のは確かに大罪である。耳が痛い。

タバコの人気は異常だった。すぐに近所からタバコは消えた。
タバコが落ちていないか、と瓦礫をうろうろする青年や中年、老年も多かった。
泥が付いたタバコを乱暴にポケットに突っ込み、次のタバコを探すのである。
探すときの、或いは見つけたときのあの目の輝きようは言いしれぬものがある。

禁煙を何年も続けて来た人々も、タバコに群がった。
この強力な状況を、タバコが楽にしてくれる。
そんな声が聞こえるようである。
確かにまだ4日目の状況では、家を失った人々が食べられたものはせいぜい塩を振ったおにぎりでおいしい方である。
岩手県釜石市では3月20日の時点でおかずはゆで卵ひとつを5人で分け合ったとされている。※1
黄身の位置を考えると話は複雑になってくるが、譲り合ったに違いない。

この状況化ではタバコは本当に光り輝いて見えただろう。(こう言うと申し訳ないが、私は吸ったことがないわけだが・・・)

父親は我が家の次男が物資をレスキュー時する時にタバコは頼みづらかったようで、菓子パンを要求していた。
しかし無情にも菓子パンは全て売り切れだったとのことだ。

当初は避難所での喫煙のマナーの悪さが際立ったが、だんだんと注意を繰り返されることにより、落ち着いて行った。
この状況化で逆ギレをするクレイジーは少なかったようだ。

※1
おにぎり3つ、ゆで卵1/5、運良く見つかる菓子1/2が「1日」のメニューと記述されている。
釜石では甚大な被害を受けた鵜住居地区より避難してきた人々に、被害を受けなかった栗橋地区の人々が食料を分け、なんとか捻出できた量である。
ここでの食料の確保が難しかったのはガソリン不足であった。被害を受けなかった遠野まで数十キロ、高低差800m。(WEDGE 2011 5)