31 犯罪

「避難所でやたらカゴに食べ物持ってる人、ここらでみたこと無いとか。なんか避難所に情報集めに来てるんじゃないかって話です」
「まあ、食い物だけだったら、どうせ腐るしな」

翌日に3人で再度集まり、怪しい連中が確かに居たという情報を交換しつつ、コーヒーを出す。

私はどちらかというと、「売り物にならない商品なんていうのは最初から配れば良かったのだ。どうせ腐る」派だった。そんなことより重要な事は山積みだったと思うからだ。
着るモノも水につかったようなモノなら、全部くれてやれよ、という気分だった。

おおっぴらに言うと有事の際に早い者勝ちと勘違いする輩が居るだろうから小声で言うが、
多賀城で被災した○ちゃんというカップラーメン製造会社の某氏は、「好きなだけ!持てるだけ持って行け!」とぶちあげた。(はいいが、あまりお湯が無い。数キロの沿岸に渡って○ちゃんは大量に漂流した)
同じ多賀城の某ビール工場もやはり、売り物にならないからどんどんもって行ってくれ、と言ったと聞いている。(こちらは東北の3月で冷えてはいるが、衝撃で振られているので吹き出るだろうけど・・)

こう言う際に、「破棄するから持って行くな!金を出して正規に買え!」という会社は一般的に愛されるだろうか?大塩平八郎はその乱で、現大丸デパートだけ焼き討ちを止めたという。
(もちろん言い分が道理にはかなっているのは間違いないが)

寒いので売り物にならないであろう衣類を持って行くのも大した行為に見えなかった。
ここぞとばかりまき散らされたブランドバッグに群がるのは浅ましいが、そんな人々を責めるような気分でも無かったし、嘆いた人は居たが、「許せない!」と言う人にも現地で会ったことは無かった。
続けよう。

床屋の息子のTは言う。
「○○の金庫もやられたって。新聞だと結構銀行とかもやられたとか」
それを聞いた父親は言う。
「新聞!ウチこねーんだよ!何日経つと思ってやがるあの新聞!役にたたねえ。解約するか」
「いや、盗まれてるかも知れませんよ」
すかさず放たれたTの返事は周囲を静かにする。
「なんか、朝早く、新聞盗んでいく連中が居ると聞きます 朝怪しい連中もみました」
「マジか。それ、ちょっと凄いね。新聞は腐らないしね」

神妙な顔でコーヒーを飲みながらTは言う。
「2人組の原付以外にも、バットとかを持った5~10人組の連中が荒らし回っているとか」
夜で何人か解りづらいとしても、5人から10人は相当多いだろう。
Tは続ける。
「なんか某外国人の窃盗団っぽいのがいるって」

やや沈黙。

私は言う。
「そいつらがマジで人を襲うかどうか。これがとてつもなく重要だね。いくつかはっきりしていることがあって、
まず、金目のものは唸るほど落ちている。ここは間違いない。しかも治安はほぼ機能していない。今盗人にして見れば盗まないメリットは無い」

消防団、消防署員、自衛隊員と異なり警察官は被災後しばらく見なかった。後の広域にわたって壊滅した被災地に赴いた際の職質の多さやメディアでの報道を参考にすると、どうもあまりの不審人物の多さにとてつもなく忙しかったようだ。

「ただ、人を襲わなくても手に入る状態じゃん?そんなチャンスにリスク背負って人を襲うかどうか」

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窃盗の舞台。サングラスマスクをした連中がモノを盗み出している写真が話題となったあるコンビニ。奇しくも海賊モノのキャンペーンの垂れ幕が下がっている。大量の自動車はどこからか打ち寄せられたものだ – 宮城県多賀城市にて 3/17撮影

リアルな金額で恐縮だが、ほんとか嘘か多賀城で430万円の現金を拾ったのを吹聴する連中も居た。また当時の新聞を見ると窃盗を受けた銀行や家は多数に登り、気仙沼信用金庫では四千万円の被害にあったと述べられている。実際気仙沼信用金庫は鍵が開きっぱなしになっていたと言う話である。そういったものを誰でも拾える状態にあったと言うことだ。

ただ、私にとっては優先順位が平時とかなり異なっていた。こんな有事でも一切のモノを拾わないような人々は理想的だろう。火事場泥棒と言えば憎まれる最右翼である。私も平時ではそういった考えだった。しかし有事の今は落ちている現金が誰に拾われようが大して気にならなくなっていた。変な場所に入り込んだ自動車を覗き込めば、亡骸が入ったままなのである。連日遺体安置所はパンパンになった。大爆発も控えている。原発も飛んだ。コンビナートにひときわ高くそびえる巨大な高圧鉄塔は斜めになっている。圧巻だった。

老人のなけなしの貯金だろうが、仕事先を奪われた災害弱者であろうが、火事場じゃなくても道路の真ん中に金を置いとけば無くなるわけで、もちろん、そんな人間がのさばって居るのは残念なことではあるが・・・・そこは平時と変わりはないと思ってしまったのだ。

しかし、日本で行われる犯罪に普段ならつきまとう捕まるというリスクがあまり無いのである。それは犯罪を受ける側に脅威となった。襲われるかも知れないとなったらなおさらである。
留守だと思って入ってきたが、そのときに人間がいたら逃げてくれるのか、さらに奪いに来るのか?それは重要だった。

私はここまで金・モノが転がっていると、まず人間を襲うメリットがない気がしたが・・・

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30 犯罪

「み、水が大きいトラックに取られたって」
「ハア?」
例の床屋の息子である。
「朝方大きいトラックが来て、貯水槽から水をたくさん持って行ったって」
「北斗の拳じゃん」
※北斗の拳・・・週刊少年ジャンプに連載されていた漫画。ヒャッハア―!水だ-!、という水の略奪シーンがある。

七ヶ浜町内はその時点でボートを使わないと移動できない場所はほとんど無くなっていた。外部からの出入りは十分に可能である。
私も何度か水を汲みに行ったが、まさかそこまで水に困窮している人間が居るとは思わなかった。

まあ、別な避難所の連中が配るために持って行ったのかも知れないし・・・・・

「あのコンビニのATM、何時間も持たなかったって」
「確かに、昨日写真撮りに行ったらすでにATMなんて転がってなかったよ」

なにやら良くない話が続き、そんなこんなで、今ある水を大事にしていきますか、という話になった。

 

暫く後、貯水槽から水は消えた。

 

「なんか、変な連中が居るんですよ」
床屋の息子の同級生Sも一緒にやってきた。(余談だが、私はこの同級生の薦めたゲームを今もしており、かなり強い)
「なんだよ、変な連中って」
私は返事をしながらお出しするための水を紙コップに注ぐ。

「食べ物をやたら持ってて、避難所で売ってるんです。みんな、コンビニとかスーパーから盗んだんじゃないか、って言ってるんですけど」
「まあ、食われずに腐るよりはいいわな」
私は率直な感想を述べ、笑った。

「なんというか、まずいんですよ。変な連中が徘徊してて、消防団も注意してくれって言ってます 原付の二人組だとか。俺、原付見ました。二手に分かれて様子見しているとか」
私は水を出した。
「変だね。確かに、警察なんて機能してないから、盗まない理由なんて無いよね。でも盗むモノなんて無限に転がってるだろうに。無事なところを回る理由ってあるのかな・・・」
「どうなんでしょうね」
「アレか、分厚い瓦礫を掘るよりも、大爆発の避難指示に従って金目のものを置いたままもぬけのカラになってる家を荒らそうってハラか」

「そういえば、一緒に話していた原付2人組が、それぞれ別れて別方向に出発してったね」
妙にリアルな響きで、母親が突っ込んでくる。真実みが増してきた。
Sは言う。
「実際、俺も今、家無事ですけど、避難所に居るんですよ。避難所にはストーブがあるんで」
「なるほど・・・」

だるまストーブの偉大さを知った。

原付で貴重なガソリンを使って徘徊するという行動は確かに変である。ガソリンは最早供給されない状態にあり、文字通り、血液よりも需要があるのだ。

3人で消防団の詰め所に原付の目撃を報告すると、消防団も疲れ切っているせいか、元気は無い。
そこから一人で帰る時の話である。

妙にきょろきょろする男が乗った原付とあった。

原付の色は緑で、タイヤまで非常にきれい。
上着はウィンドブレーカー調。
20代、やや肌は浅黒く、ヘルメットをしている。

笑顔で礼をすると、視線をそらしただけである。

挨拶は、「敵かどうか」という重要な意味を持っていると実感したのはこのときが初めてでは無かったか。

おそらく、夜に彼、またはどこかに居るであろう彼のグループと私の家の敷地内で出会うことがあれば、挨拶ではない・・・・・・残念なやりとりすることになるだろう。

薄暗くなる時間に家に戻ると、ラジオは言う。

「まもなく、日没です・・・・・・」

29  その後の世界

生存には希望が持てるものの、地震、津波、原発で未来にあまり良い望が持てない状況と化した。
阪神大震災でも、(2011年3月現在)神戸は復旧に失敗していることは知っていた。

瓦礫は安全靴を貫通しうるほど重く、硬い。まだまだ素人が片付けられる領域では無いし、盗人に間違われる。うかつな手伝いはできない。

となると水も食事も自前であるため、とりあえずやるべき事は勉強か運動になる。風呂がないだろうから汗をかかない程度だが、校庭にある鉄棒で運動をしておく。運動の重要性は避難所に普及した体操で解ってくれると思うが、問題はあの破壊の翌日に体を動かす気になるかどうかで、人によっては自粛しろと言いたいかも知れない。なるほどそれに関しては賛否がある。何にせよ、運動はチマチマしていくことになる。

■あるジムの話

「大変でしたよ、自粛しろっていう電話ばかりでした」
日本でも最大級のあるジムを運営する本社内で、職員が教えてくれた。

――本当ですか、今の日本で食事なんてしてれば、運動以上に大切なことなんて仕事、家庭くらいでしょう。重要度は勉強と同等かもしれません。そのくらい見つける方が難しいのに
「9割は自粛しろ、って言う電話でしたね。こんな時に運動なんてしている場合か。電気がもったいない、と」
――ばかな・・・
「シャワーが使えたんで助かる、っていう応援もありましたよ。でも、ほとんどありません」

9割である。いろんな事を考えさせられる話である。
自粛を求める方は運動をしないような人々にすら感じられるのだが、それはあまりにも荒っぽい分け方だ。

自粛とは何だろうか。
自粛すべきである、自粛は合理的ではない、この二点の考え方は、「被災地に対し、何らかの形で貢献することを促そう」という一点で一致する。

災害状態の外に居る人も、”全く無意味であっても”自らに何らかの痛みを与えようとするという。(例えば、使用期限に決して間に合わない地域での献血が被災地に向けて行われたという – 災害ユートピア)国内は言うに及ばず、諸外国からも「日本の自粛は全く無意味である」と言った意見はあったが、こういった自粛は日本だけではないようだ。

災害時に諸外国は~が変だ、~がおかしい、~が素晴らしい、という。「同じ人間にそんなに違いがあるかあ?んー?」毎回変だと思ったので、ずいぶん調べたが、「日本はここが違う」という諸外国の意見というのはまず災害をモロに体験していない諸外国人が発信した意見だと感じる。

消費を促すのも、「財布の中身に金を貯め込むな、消費しろ、これは自分だけヌクヌクしてちゃダメだ」という形の何らかの自己犠牲ではないか。

これはその後の世界の感想として、事象を追って話していきたいと思う。どちらも効果があるのだ。

 

 

例によって「どこから水を持ってきたんだ」という避難者の視線で気まずくなりながら歯を磨く。こればかりは自粛出来ない。寝る準備をする。
セダンに3人寝るのは狭い。全員冬なのでやや厚手の(元々家にあった)寝袋を被るのだが、後部座席も人で埋まるとなれば、それは容赦なく運転席に居る私の太腿にハンドルが食い込む原因となる。狭さはエコノミー症候群の原因になるので、チマチマ体を動かしながら朝を待つわけだ。

自動車は究極の居住空間である。
水道ガスがないだけで耐震かつ免震、冷暖房、ラジオ・またはテレビ機能を持つ発電・移動可能の「家」である。六本木ヒルズだって発電は出来るが移動は出来ない。
夏に被災したら熱中症は深刻だろう。北風と太陽よろしく何か被れれば死なない冬の比では無い。ところが、車は大丈夫なのだ。

 

3月13日

朝になると、こんな寒いところで寝れるか!と父親がわめき出すので無理矢理家に帰ることになった。またもや大爆発は運命に任せることになる。根性が無いな、というこの母親の顔!
私は虚しくハンドルが食い込み終わった太腿を叩く。

両親の自動車は2台とも多賀城で水没しており、3台入る駐車スペースには1台が入るのみ。なにやら駐車が楽になった。

確かに家にはたまたま買いだめしておいた灯油が大量にあった。灯油ストーブは一ヶ月ほど使える。
エアコン導入時に灯油ストーブを捨てられるような出力のものを買おうとしていたが、2ヶ月待ちと言う事で妥協した。この選択は幸運なことに灯油ストーブは捨てられること無く灯りと暖かさを提供する結果になった。ガス缶が無くても容易にお湯が沸かせる。灯油ストーブは様々なことが出来るのである。

食事は水を使って食器を洗えない。紙皿や紙コップがたくさんあったためそれを使った。カレーなど重い物を調達された場合、食器をラップでくるむ。
私はMRPという完全流動食で間に合う。

給水はまだ来ないが、ご近所から聞けば町が防災用に用意していた巨大な貯水タンクがあり、飲料用にも使えるという。水と火、食べ物があるなら、とりあえず大丈夫なはずだ。

インフラは完全に無い。
携帯は所有している3キャリアともつながる気配は無い。
ガソリンも手に入る気配は無いようだ。何が起きているのかはラジオが頼りである。

日が沈み始める頃、電気がなければ誰も何もできる事が無くなるのだろう。人の居る気配がなくなっていく。鳥の鳴き声もしなくなる。町から一切の音が消える。

ラジオは言う。

「まもなく、日没です・・・・」

洪水や地震が相次いでいるようです

毎年世界のどこかで自然災害は起きるもので、今年がことさら多いかどうかは解りませんが、今年は非常に災害の話を聞きます。タイに引き続き、トルコも震災に見舞われました。
お見舞い申し上げます。

 

備えあれば憂い無しと言いますが、物的なものばかりそろえるのではなく、どう逃げれば良いのか、どこに行けば良いのか、まず災害の瞬間に生き残る手段をしっかりと確認していきたいものですね。

準備は今しか出来ません。

28 所感

不安定なところにノートパソコンを置いたとする。
そして明らかに危険だと解るとてつもない地震が来たとする。

そのとき、真っ先に逃げるだろうか?それとも、ノートパソコンを押さえるだろうか?
私は多くの人がノートパソコンを押さえると思う。
何せ、自分が死ぬ想像をして避難を考えるより、ノートパソコンは落ちたら不味いモノだとつくづく知り尽くしていて、それを真っ先に押さえる方が手順が明確で、定期的に落ちそうな、落ちたらまずいモノをつかもうとする実践をしているからだ。
それがノートパソコンではなく文庫本だったら、無視するだろう。

私は避難にに対して崇高な判断能力があったわけでは無い。ただ単に、家の海抜ならまず安全だろうと思えたから、家に置いたモノに対して安心して逃げる事ができた。つまり、モノに対して油断できたのだ。
もし本当に津波が届きそうだったら、慌てて持ち逃げするモノを決めたに違いない。どんな水でもものすごい勢いで流れてきたなら、今まで手に入れてきた物質的なモノは、全て消滅する。津波など経験した事はないが、それだけは解る。

人は油断をする生き物である。油断は絶対に無くならない。ならば、先々油断してもカバーできるようにおけばいい。そして今回油断できる場所に家があった。

津波てんでんこ「お互い心配しないでバラバラに逃げろ、家族も同じように絶対逃げきっている」というのは、家族に安心出来る、つまり油断できると言うことではないか。

私が長々と所感を使って油断というものに言いたかったことは、
「油断はするべきではないが、決して無くならない。
失ったらまずいモノこそ、今、油断してもいい状態にしておけ」
と言う事である。

古人曰く、「備えあれば憂い無し」と。

 

■その後の世界 まえがき

誰かを助けようとして死んだ、というと美談になる。
モノを取りに行って死んだ、と言うとダメなことの筆頭になる。

しかし失いたくないモノを助けようとした結果となると、私はどちらも美談だと思う。
なるほどあれもこれも持とう、と言うと浅ましさを感じるかも知れない。

大切なモノを失ってしまった人間はどうなるのだろうか?
これは「警報を信じない」「津波の高さを侮った」「見てから逃げて間に合わなかった」ケースと少し違ってくると考えている。こちらは無知は大罪(得られた結果は、死)だ。(何度も言うが、責めることは出来ない)
津波が来ると確信したからこそ、人やモノを助けて逃げようとしたのではないか?
持って逃げられないモノもある。自分の会社の工場であったり、家だったりする。それは失ってはならないモノだが、絶対に持てないのでその場では諦めが付く。
しかしその後、絶望を伴うのである。

自分の命が一番!助かるのが大事!貴方が世界で一番尊い!という考えの方には理解しがたいと思うが、モノは生命より大事なこともあるのだ。モノを失った未来を想像するより、ここで共に死のう、とすら思う人間は多い。
たとえば仕事に五体で再起できる年齢や技術職なら大抵が自分の能力があればそれがモノとなりなんとかなる。しかし再起できないと思い込める年齢、また端から見ても希望が持てない年齢で積み上げたモノが全て消失したらどうだろうか。

最近流行っている本当に必要なモノ以外全て捨てていくライフスタイルがある。
このライフスタイルは私も好きだ。わけのわからない”モノ事”に右往左往せず、捨ててはならないモノ(お金、技術、会社、思い出)を大切に扱い、または磨くための考えである。

だが、失ってはならない、生き甲斐を伴うモノを奪われた人はどうなるのだろうか?

ここからの話は、その後の世界になる。
被災と考えると、”奇跡の生還!人助け!家族が死んだ!家が無くなった!悲惨だ!頑張ってる!電気無い!水が無い!酷い!日本人は我慢強い!”
そんなイメージがあるかも知れない。

私は家も職場も残して被災に触れることが出来た。この経験が無かったら、災害に対して一生勘違いをしているところがあっただろう。
経験、また図書も参考にしてあるが、参考部分や伝聞部分は必ずそれを示す旨を入れることにする。

私と聞いた話と違う!と思った方は、おそらくそれも正しいが、決して一例で済まない状況を憶えて欲しい。
災害者には色々居るのだ。

災害後の弱者
一般的被災者
サバイバー
災害後の強者
主に社会的インフラのみの被災者
現地に居ないが、家族などが被災した人・・・

また、今回様々なことを思い起こすに当たって、(よくこんな憶えているな、と突っ込まれることがあるが)特に人を自分の印象や思い込みでくくらないことに細心の注意を払っている。
(思い込みは、今回かなり打ち砕かれた)

ようこそ、その後の世界へ。

27 津波と三陸

私が「経験した事も無いのに津波に用心深い」ようなイメージを持ったとしたら、三陸の度重なる津波への説教が作り上げたに違いない。

私の出身地はその大船渡市だからである。

私がまだ小学生だった頃、父の厄年に送られてきた厄年向けの小中学校アルバムに我が家の家族が乗っているのを見せられたとき、別なページにチリ地震津波のセピアなモノクロ写真が一枚写っていた。家族の写真を見せたかったんだろう父には悪いが、そっちの方が気になってしょうがない。

町が消え去った写真に付けられたキャプションは確かこういったものである。
「みんななくなった うちも、あんたの家も、友達も・・・・」

小学生が触れる破壊として思い出すのは大概の小学校にある「はだしのゲン」(中沢啓治 集英社・週刊少年ジャンプ)の”ヒロシマ”なのだが、私はこの写真にそれに近い衝撃を受けた。チリ地震津波の話は聞かされていたが、これほどのものなのだと。

つまり私が津波を非常に恐ろしいものである、と思ったスタート地点はこの写真であった。この写真に出会わなかったら、わざわざ海の見える建物を職場にしてしまったかも知れない。
カメラを持ち出したときの話に戻ってしまうが、私は全てのものが無事だったのを見て、なるほどカメラは生命の次に重要であり、写真は生命を救いうるのであると感じることが出来たのである。

その後小学校だか中学校だか憶えてはいないが、あるとき、社会科の授業で教師が「フィヨルドの地形は三陸にそっくりですが・・・」と内容の授業をしていた。そのとき「フィヨルドが三陸にそっくりならば、津波大きくなるのか」という素朴な疑問が浮かんだ。
私にとってその頃すでに、津波はサメの生態やクマの筋力と同等の興味深い話題になっていたのである。

私は図書館でフィヨルドの津波を調べていると、1950年代に世界最大級の大津波が発生しており、その遡上高はどうも数値がおかしい。

波高150m以上 遡上高約520m 1958年 アラスカのもの。

(ナショナルジオグラフィック 警告!最大級の自然災害ビッグ4 第2話 破滅的大津波の恐怖 で詳しく述べられています)

チリ地震の5~7m”ごとき”であの破壊力である。
沖縄の遡上高80mオーバーでも脅威としては十分なのだが、アラスカの大津波は「これ以上は来ないだろう」という定義が全く無意味であると教えてくれる。
富士山の6合目に逃げたとしても、逃げないより遙かにマシなのだ。

これ以降、私が「津波。津波は不味い」と恐ろしげにしゃべり、「ふーん」と言われるというやりとりがこの3.11まで続くことになる。

大船渡に先祖から伝わる土地を持つ祖母は、家族が物件の話をする度にこう言う。
「そこは津波が来るところか?」
先祖の土地を守らねばならないが、津波を受けるのは嫌だ、という葛藤にさいなまれていたのだ。
チリ地震津波を教訓に作られたという大船渡湾口防潮堤は最初からアテにしていない。
本震災で、その家は綺麗に消え去った。

祖母は津波の前に(運良く)大往生しているが、
「津波が来るところは決して住むべきではない」
と教えは終始一貫していた。

父は岩手から宮城に転勤のした際、家は津波が来ない(来づらい)高い所に建てた。

(真偽は定かでは無いが話では)仕事では水産関係の工場を設計するときに津波について言う。
「ここは津波が来ますね もうちょっとお金出してこちらの安全な土地にしてはどうですか」
その提案が通ったことはないと言う。
本震災で、設計した工場は壊滅した。

4-5世代以上にわたる長い戦いではあったが、ようやく私の代でほぼ無傷で凌ぐことが出来たことになる。

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大船渡の実家。巨大船舶が家を突き動かし、道路復旧の場所に不都合があるところに飛び出たため破壊され背後の瓦礫になった。 – 岩手県大船渡市 2011年4月30日撮影

(※やや間が目立つパノラマになっています。ご容赦ください)

(前話)冒頭の三陸海岸大津波からの引用は最後のページのからだが、三陸に住んでいると、やはりみんな同じこと考えてしまうわけだと、妙に頷けたのである。

Jobs氏のご冥福をお祈りします。

macのプログラムの開発は行ったことが無いのですが、予想外の所で関係してびっくりしています。

先日、ウェブ石碑のサーバーがダウンしました。ご迷惑をおかけしました。原因は肥大化したログかと思われましたが、どうもJobs氏の逝去によるアクセス増加が原因なのでは無いかと思われてきました。

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トップでは1位から5位まで独占しております。

人気順で見ると、1-10位まで独占しております。

これは江頭氏でもなし得なかったものです。
カリスマの大きさがうかがい知れます。

 

iPod5G Videoをハードディスク交換、こんなに良いデザインで仕上げてくれたものにカバーを付けるのが申し訳ないので付けた事は無いかわりに、外殻が傷だらけになるのでそれも交換して使い続けていますが、ツヤツヤのiPodは確か暫く姿を消したようにおもいます。

この少々前、ちょうど様々なブランドの革小物からもツヤツヤが姿を消しつつありました。大理石と称される美しすぎたピネイデルは日本から姿を消し、磨き抜かれた高級車のようなS.T.デュポンも”ジェオメトリ”シリーズも絶版になってからツヤツヤのものを出していません。ツヤツヤが好きなので残念です。

ツヤツヤの皮は靴・ベルトくらいになりました。靴屋には暗黙の了解があります。「つま先、カカトは触れるべからず」

 

しかしipodtouch, iPhoneは指紋を恐れずに出して来ました。私はどちらも持っていませんが、手間がかかるかわりに非現実な美しさを楽しめる。磨くのが楽しそうで羨ましいです。

舌を信じる

– 1/∞ –
50年間の間、りんごに含まれる鉄分の量の遷移。
2.0mgから0mgになった。

(日本食品標準成分表1950,2000)

食欲の秋と言う事で、食事について述べたいと思う。

私はド田舎出身なので、自然の食べ物に触れる機会が多い。

そこで少々というか気になることは、人が舌を信じられなくなっていることだ。
まともな食事が無いので、味を計る基準値がないのである。

外食で野菜を食べると、味が薄い。水を食べているような感覚である。歯ごたえだけを楽しみ、味はドレッシングの味だけ。それをありがたがって食べるのである。

某グルメ漫画ではないが、味で判断できないのは、一つの弱点だ。

しかし残念なことに、まともな野菜は最早手に入らない。年収が1000万円を超えていても、4人家族なら食事でまともな栄養を摂取するのは不可能と言える。もしスカスカの野菜で栄養を得ようとするなら、莫大な量が必要となるし、まともな野菜は最早売っていない。

勘違いしないで欲しいのは、有機、天然といった単語が付けばいいと言うわけではないのだ。栄養があり、余計な農薬などが付いて居ないことである。そしてこれは、入念に調査機関が調べているならともかく、そんなことはあり得ないのだ。つまり舌で判別するしか無いのである。完璧な時期に100%りんごジュースの濃縮果汁還元と、絞っただけのモノを飲み比べた感覚。そうそれだ。飲んだ事が無かったら、ショックを受けるはずだ。絞っただけのものは桁違いにおいしいが、それが普通だったのだ。(もはや絞っただけのものにもハズレがあるが・・・)

野菜は体にいいものではない。

「いい野菜が体にいい」
のだ。
舌を信じろってこと

しかし、異常な油脂、砂糖で舌が機能しなくなっている人が多いため、残念ながら現実的な方法では無いのである。

私は野菜をたっぷり食べても、錠剤のビタミンとミネラルも取った方がいいと思う。

最早一般的に販売している野菜は過大評価をされるロートルなのだ。もともとそんな時期にその野菜、採れる種類だったの?って野菜に聞いてみよう。

○○200個分の鉄分!ってほんとに0mgかもしれないぞ。
楽な方法は、ないってこと。

26 所感 – 津波と三陸

「津波は、時世が変わっても無くならない。必ず今後も襲ってくる。
しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているだろうから、死ぬ人はめったにないと思う」

文春文庫 三陸海岸大津波 (吉村昭  2004)

 

さて私は家も職場も無事で、あまりドラマは無い。
しかもあたかも津波が来ることを知っていたように書いてあるところも散見されたと思う。
おそらく本災害以前に津波を「三陸」ではない場所で語ろうものなら、大半の返事が「ハア?」とか「気を付けておいて損は無いけどねえ」と言うような気のない返事をするだろう。

三陸は東北にあるリアス式海岸で非常に豊かな海として知られる。急激にせり上がった厳しい岩と相まった白砂青松は日本有数の海岸美を誇る。気仙沼より北は国立公園として整備されているため、景観を破壊する物もほとんど無い。いきなり南端のスタート地点、気仙沼にあるその名の通り大理石で出来た大理石海岸からは三越本店のライオンが削り出されたという話から始まる。そこから180kmも海岸美が続くのだ。

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高さ200mにも及ぶ岩壁が続く。海岸線沿いは遊歩道とトンネルがあり、散策できる。- 岩手県 陸中海岸国立公園 鵜の巣断崖 2011年撮影

三陸は陸前、陸中、陸奥(ここでは”むつ”ではなく”りくおう”)3つの国から三陸と呼ばれた。
もちろん、普通こんな地元民しか知らない呼び方はまず流行らなさそうだ。東北で若者に駿河生まれと言ってもあまり通じないだろう。

何故三陸という名前がそれなりに知られているのか?それは漁場が豊かだからではないようだ。それに、リアス式海岸なら日本に他にもたくさん有る。

これは明治にあまりに巨大な津波が来たために、被害地域とスッポリ一致する三陸という呼び名が報道に使われ有名になったのである。
カンのいい方はお気づきの通り、Tidal waveに代わりTsunamiが世界で使われはじめたのもこの明治三陸大津波が大本であるとされる。
津波は三陸という呼び名を有名にし・・・三陸はTsunamiという呼び名を有名にした・・・三陸は本当に津波が「特産」なのだ。

この1896年の明治三陸大津波は38.2mという遡上高、観測史上最大を記録した。
(ちなみに、明和大津波は石垣島に85mという記録が残っているが、観測はしていない)
これが綾里という地区で、現在岩手県の「大船渡市綾里」にある。

 

綾里村に残る石碑を現代語訳すると下記の通り。
「綾里白浜は太平洋にまっすぐに向き、津波の勢いを遮る物は無い。野を越え山を走り、2つの湾の津波が合体した」
「死者は頭を砕き、或いは手を抜き脚を折り、筆舌に尽くしがたい。役場は村長1名を残すのみ」
「数十日経ってから上げられた家族の屍にすがって泣くも、遺体は家族が見ても元が解らなくなっている。頭も脚も違う場所に有るような遺体に至っては悲惨の中の悲惨である」

1933年、また三陸を直撃した昭和三陸大津波は最大遡上高は28.7m。また同じ「現大船渡市綾里」である。
1960年、チリ地震津波が三陸を襲い、またもや岩手県「大船渡市」が最も多い死者を出した。

チリ地震津波は夜が明ける前に大船渡市民の漁師が海の異変の気づき、必死に声を出して住民に伝え、市内でサイレンが鳴ったという。
地震が無い津波はその当時一般的では無く、気象庁は津波が来た数時間後初めて、津波の恐れ、と発表するに留めた。
(ちなみにハワイがこの津波による死者を事前に出しており、この津波の5年前にチリで大地震があったら日本も津波を警戒せよと言う論文が発表されている)

大船渡湾に入り込んだチリ地震津波についてこう述べた人が居る。
「一度入った波が湾内で何度も反射し、水去らず。阿鼻叫喚の様」

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大船渡にとって、明治から4度目の大津波 – 岩手県 大船渡市 市街地 2011年5月4日撮影