ウェブ魚拓の国際化ドメイン対応につきまして

国際化ドメインの取得がうまくいかないとご報告がありました。

確認したところ、確かに取得出来ていない状態になっておりました。

これにつきまして、修正し、対応させていただいたのでご連絡いたします。

 

 

これからもウェブ魚拓のご愛顧をよろしく御願いいたします。

66 宮城県南三陸町 芸能人 2

南三陸町は実家に帰る途中に通るし、ホテル観洋という非常に景色が良い人気のあるホテルに何度か泊まったことがある。
ヒラメを釣りに震災ちょっと前に遊びに来させていただいて、爆釣(50匹!!)したばかりだ。自分が食べられないだけ釣るのはあまり好きではないが・・・
その時の船頭さんは税務署に激しいチャージを受けたばかりでげんなりしていたが、津波は家の手前で止まってくれて助かった。

そんな私が被災後の南三陸町を初めて見たとき、南三陸町がどういった町だったか思い出すことが出来なかった。

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「これは・・・・・・・」
同乗者はあまり見たことがない土地ではあったがしかし
うまく言葉に出来ないが、これまでに見てきた町と異質なものである事は感じ取れた。
恐らく、女川の方が破壊力や波高は高い。しかし南三陸町は女川町より大きいせいだろうか。

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南三陸町
人口 17,666名
死者 565名
行方不明者 280名
志津川・歌津の中心部、またほとんどの集落が壊滅的被害

「南三陸町では住民約半数と連絡が取れていません・・・・」
(当時のラジオ。停電の中。)

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私は「これはなんなんだ」と繰り返すだけになっていた。

見当をつけるしかないような高さの津波は指定避難所となっていた屋上を保有する鉄骨3Fの防災対策庁舎を骨だけにした。
防災対策庁舎の周囲にも建物があり、たとえが何とも言えないが北海道の時計塔のようにぐるりを囲まれていたものであるがしかし、最早何も無い。

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この写真はかなり綺麗になっているが、当初はギッシリとがれきが絡み合っていた。
約40名が屋上に避難したが、生存したのは10名。
この街に起きた悲劇を並べるだけで本が成立する。
最後まで防災無線で避難を呼びかけた女性は教科書に掲載された。
(実際は寸前に避難をしたはずだったと考えられるが)
南三陸町は冒頭でも写真を添えて説明したので、ここでは深く掘り下げない。

さて中心的な通りの途中に「復興市」と看板が出ており、駐車場があり、誘導がいる。

誘導さんに聞く。
「何やるんですか、この復興市って」
「さ、さあ・・・?なんでしょうね・・・?」

なんか白々しいぞ。寄ってみるために駐車場に車を止める。しばらく歩くが、荒涼としている。
現場の志津川中学校に付くと、「円」がほとんど使えない!
募金箱も無いので申し訳ない事にあまりお金を落としてくることは出来なかった。

当時5月の南三陸町志津川の水道復旧率、わずか1%。トイレすら申し訳ない。

現金

被災時に「現金もってないとダメだよ」と言う意見もある。しかし現金なんて2~3万円あれば大丈夫で、それも大抵丸々残るのではないか。
都会で被災が長期にわたった場合でも、お金が下ろせないような状況では円を使って入手するような物資も入ってこない。3000円も使えば買えるものを買い尽くしたという感じだろう。
案外たくさん持ってると、変なのに入られちゃうかもしれない。
しかし、急ぎでタクシーなどを多用する人は確かに持っていても良いと思う。

 

立ち寄ってからすぐに、何やら観客が盛り上がってきた。

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「エグザイルの登場です!!!」
ああ・・・なるほど・・・こういう事ね!

エグザイル様の勇姿をしばらく見た後、出ることとした。

さっきの駐車場の案内が聞いてくる。

「どうでしたか?終わりましたか?エグザイル」
「まだちょっとあると思いますよ」
そう答えると
「もうちょっとで忙しくなんぞー」
と回りに呼びかけていた。

「なんだか、考えたこともないエグザイルがかっこよく見えましたよ」
同乗者は興奮気味だった。

大抵の芸能人は立ち入りやすい、人口も多い石巻までしか来ない事が多い。南三陸町、気仙沼、陸前高田、大船渡はなかなか人が来てくれない。
(高速の兼ね合いもあるが、宮城の右上、岩手の沿岸、こいつらは本当に遠い・・・・)
「芸能人、こっちに来てくれねーんだよね」と寂しがる現地人は多かったのである。
マリリン・モンローが朝鮮戦争の慰問で兵士が喜んだことを考えるとパワーは大きいかもしれない。

我々はたまたま寄っただけで、今回は慰問が内緒になっていたせいか混雑は見られなかったが、芸能人目当てで来る他地域の人々で渋滞やらが発生して問題もあったようだ・・・紙しか入らない募金箱でもっと絞ってもいいってもんだ。

65 宮城県女川町 避難所となった原発

「高台に逃げろ 高台に逃げろ これが最後の放送です」
女川町 防災放送。
河北新報 2011年08月26日 証言 より

女川は非常に小さい町だ。5年に約1000人の人口が減って行っている。
しかし県民は誰でも知っている。
原発の存在があるからだ。

女川は中心部分が波高17mとも言われ、遡上は20m以上、信じがたい威力と高さを持って真横にビルをなぎ倒した。

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ビルの裏側はなかなか見た事が無いはずだ

「丘の上のどう見ても高台で安全に見える病院」も2m浸水、4名が死亡した。
またここだけではないが、引き波で引きずり込まれた建築物が海底に都市を形成しているという。
女川の津波で孤立した妻と母親をスキューバダイビングで生還させた英雄は世界で報道された。

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宮城県女川町
人口 10,016名
死者 575名
行方不明者 340名
家屋大半が全半壊、壊滅的被害

(女川町、宮城県発表)

「女川原発周辺で放射線量が通常の4倍検出されたということです・・・」
(当時のラジオ。実際は福島原発より飛散した放射性物質が原因だったが、現地を知らない宮城県民にとって恐怖の対象となったはずだ)

女川原発に津波は直撃。しかし耐えた。そして避難所としても機能した。頑丈な場所はかくあるべき、と思わせる何かがある。

「明治三陸津波や昭和三陸津波よりも震源が南にある地震,例えば貞観や慶長等の地震による津波の波高はもっと大きくなることもあろう。」(東北電力)
東北電力は昭和45年に敷地標高14.8mを津波対策に決定。
この根拠の優れたところは、当時発見されていた物的な証拠(堆積物等)では無く、古文書を信じたところにある。
本震災で直撃した津波は約13m。防ぎきることになる。

通常、会社とはなるべく無駄なお金を使わないために、「セキュリティには必要十分と”思い込みたい”だけお金をかける」かけるものだ。往々にして必要なお金もかけずに崩壊することになる。
本社の所在地仙台が女川に近い(直線で60km)と言う事もあったのか、元々真っ当な人間とはこういうものだからか・・・・(この表現は、最終章に真っ当ではない人間が登場するためになる)

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女川原発反対の看板がイヤでも原発を意識させる。「事故で止まるか みんなで止めるか」歯切れが良いフレーズであり、非常に良く出来ている。

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海上保安庁「ざおう」が厳重に女川原発を警備する。
非常に頼もしい光景だが、このコストはどこが・・・まあ実践演習をかねてだろうか・・・
もともと、海上保安庁の原発反対派排除は本当かどうか知らないがよく聞く話ではある

女川と言う事で明るいクジラの話もしておく。女川の某氏から「某クジラの尾の身」をいただいたが、これは今まで食べた肉の中で最もおいしいとすぐに確信出来るものだった。
クジラは、というより生物の肉の味を評価するに当たって、新鮮な尾の身の刺身を食べてから評価していただきたい。

参考 東北電力株式会社 女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について

64 東松島市 ノアの箱船

東松島市は沿岸の指定避難所に逃げ込んだが数多い犠牲者を出した。

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東松島市

人口 43,153名
死者数 1047名
行方不明者数 57名
全世帯の約73%が全半壊
(東松島市発表)

「仙石線の野蒜付近を走行していた車両と連絡が取れていません・・・」
(当時のラジオ)

全世帯の73%が全半壊というのは異常な破壊力である。

当時のラジオで発表されていた仙石線は上りと下りで東松島市の野蒜駅を出たばかりの時に地震に遭い、片方は指定避難所まで連れて行き犠牲者を出した。
片方は乗客の地元住民の一人が「ここは高台だから動くな」と指示を出し、車掌共々それに全員従い無事であった。
前に進んでも先に進んでも津波でダメだった、という。
指定避難所だった野蒜駅からさらに置くにある野蒜小学校体育館は3mほどの津波に襲われ、2Fギャラリーにしがみついて助かるような惨劇になった。水が引いたと同時に、遺体が転がっている状態である。
ギャラリーでは低体温症で亡くなる人が出る極寒の中一晩過ごす絶望的な状況下で、小学生は「野蒜小ファイト!」と声を出したという。

校舎に逃げれば助かったのではないか、と言われるこの小学校は東北大が監修した防災マップの浸水想定区域に入っておらず、地震に対して頑丈な体育館が避難所となっていた。

「またかよ!○○大、アテにならねーじゃねーか!」
とガラの悪い声が聞こえてきそうだが、まあその通りで、自然様にはまだまだ学者はあまりアテにならないようだ。

しかし、東松島市に誰よりも危機意識を持った、ノアのような人物が居た。

「津波は建物じゃダメだ、山に避難所を作ろう」
この東松島市には退職金を費やし、10年をかけて山の岩に道を作り避難所を作った「佐藤さん」と呼ばれる人が居る。
小屋も作り、食料も用意し、看板も作った。
地元住民はここに津波はこないだろう、と笑っていた。
完成した頃佐藤さんは市に指定避難所に「佐藤山」を、と嘆願したが、相手にはされなかった。

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powered by Google (野蒜小学校は野蒜駅の左方面)

そして2011年3月11日当日、懸念していた大津波は絶望的な破壊力でやってきた。
そのとき「佐藤山」は70名の命を救ったという。

参考
河北新報 指定避難所で何が 東松島・野蒜小 証言で振り返る大津波
朝日新聞 手作り避難所、70人救った 10年かけ岩山に 東松島

63 多賀城

朝日が出ると
林に大きい自動車がたくさん生えている
エンジンが重く、下を向いたまま流されて
人でも入りたがらないような狭い木々の隙間に
逆立ちのまま埋め込まれているのだ

不自然な影を地面に映す木漏れ日の
あまりの幻想的なその光景に息をのんだ

その光景に出くわして私がそこを撮らなかったというのは、私が何を求めていたのかわからない。
なんでだろうか?

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多賀城市。

 

「ここを超えれば、たばこを買える」
ある七ヶ浜町の喫煙者。浸水範囲から仙台側に離れたところではタバコが売り切れになっていなかったため。
七ヶ浜町はどこに行くにも浸水範囲を通る必要があった。当時は道路がない。

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多賀城~東松島が今回の舞台である。

まずは多賀城。
石巻の山津波ではないが、やはり津波は1方行、等速度でくるものではないと教えてくれる。

例によって、多賀城は防災無線の大半が鳴らなかった。
この同じMade in Japanで鉄板の安全運行と言われる新幹線と防災無線の差はなんなのか・・・

多賀城市は都市型津波を雄弁に語った。
他の地域、例えば仙台市などは大都市に見えるが、今回の被害の中心は一軒家が並ぶ住宅地区が主である。
今回の都市型津波の代表格がこの多賀城市である。
多賀城工場地帯は「崩れない建物」が集まっていた。

都市型津波はまず今まで以上に海が見えない。
崩れない建物が視界を遮り、海の方向がどうなっているかすらわからない。
建物が高いため、津波が生み出す唯一視認できる土煙もあまり見えない。

そして崩れない建物に波がぶつかると、水が急激に狭いところに入り込み、一気に速度が上がる。破壊力が増す。

建物を縫うように進んだ津波はたとえば前後同時にやってくる。2方向から一気に水が来るのだ。
現代において、津波は海から来るとは限らないのである。
さらに不運なことに、多賀城の激甚被害区域と海を挟むように砂押川という川があり、その川は海側に溢れてきた。

つまり最悪3方向から津波が来ることになる。

とはいえ崩れない建物があるわけで、車ごと浮き上がったところで何とか逃げ出す、と言う選択肢も生まれると言えば生まれる・・・

少々脇道にそれるが、ある被災者は言う。
「テレビでよくあるヘリで救助されるシーン。
みんなぐったりしてるでしょ?ただ一晩待ってただけなのにあんなぐったりするもんじゃないだろ、と思ってたんだよ。
ところが実際助けられる立場になったら、すごい安心してね、腰抜けちゃうんだよ。もう立つなんてとんでもない」

ウェブ魚拓とウェブ石碑のメンテナンス告知

4月7日(土)の午前0時より、ウェブ魚拓およびウェブ石碑のメンテナンスを行います。
作業内容は、利用しているホスティング会社のプラン変更に伴うサーバの入れ替えになります。
4~8時間程度を予定しています。終わり次第、順次サービスを復旧させます。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

62 仙台 2

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閖上中学校。

地震後に公民館に避難した人々は、世間話をしていた。
逃げなかった人もおのおのゆっくりしていた。

■ここで運悪く、
地震で防災無線は完全に故障していた。
津波が来るという警報はならない。

暫く経った後、公民館に入った人々がぞろぞろと出てきた。
車で移動移動する人々、歩く人々。

■ここで運悪く、
公民館の職員は「ここは2階までしかない。津波が来るときの避難所ではない、中学校に移動してほしい」 と溜まっている人々を閖上中学校に送ってしまっていた。

市では大津波の際、最低でも3階の建物に避難させるという方針があったという。
結論から言うと、2階に居れば助かった。しかし、本震災の平均生存者避難階数は2.9F(ウェザーニューズら)。市は大津波への避難所の周知が徹底していなかったという点で問題があるものの、2Fで助かったのは結果論かもしれない。

津波に実感を持てない逃げなかった人々は立ち話などゆっくりと話していた。

■ここで運悪く、
中学校へ向かう車道は渋滞していた。
その先の交通量が非常に多い交差点のそばで死亡事故が発生していたためである。
公民館から閖上中学校は地味に距離がある。
非常に広大な平地である仙台平野の移動の常として、自動車が使われる。

信号は停電で当然全て機能していない。

このとき既に水門にいて海の変化を見た人、マンホールから水が吹き出しているのを見た人は我に返っていた。
この街がすでに海のものであるという現実に気付いたように。
町内で叫びながら避難、あるいは説得した。

大津波が来るぞ、逃げろと言っても全く信じて貰えず、自動車のドアを開け、ラジオを最大にして訴えた人も居た。
後の生存者はその時、
「あの人は(頭が)大丈夫か」
と思ったという。

「車から降りろ、逃げろ!」
降りて逃げる人もいたが、
「渋滞中に交通違反するわけにもいけない」
と車内にとどまった人もいた。

「海の方に煙が見えるよ」
そう子供がつぶやいたとき、閖上は―BBCの表現を借りると―「水拭き」された。

閖上地区の死者は人口の1割を超えた。

家路につくときの事故渋滞なら、ツイてないで済んだが・・・
(防災無線の故障原因などには調査結果がかなり妙なこともあるのですが、深く突っ込めないのでここでは記述しません)

貞観13年
この海岸にありがたい十一面観音像が
波に「ゆりあげ」られていたのを漁師が見つけた
それ以来この土地を
ゆりあげ浜と呼ぶようになった

海を去ること数十百里
どこから陸でどこから海か
原野も道路も すべて蒼

船に乗るにもいとまあらず
山に登るにも及びがたし

溺死するもの千ばかり
資産苗稼
何も残らず

(日本三代実録)

それはこの貞観11年の大津波とあまりに近い。

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閖上中学校の時計は14:46で停止した。

参考

NHK 巨大津波 その時ひとはどう動いたか
河北新報 2011/8/3 証言