62 仙台 2

yuriage
閖上中学校。

地震後に公民館に避難した人々は、世間話をしていた。
逃げなかった人もおのおのゆっくりしていた。

■ここで運悪く、
地震で防災無線は完全に故障していた。
津波が来るという警報はならない。

暫く経った後、公民館に入った人々がぞろぞろと出てきた。
車で移動移動する人々、歩く人々。

■ここで運悪く、
公民館の職員は「ここは2階までしかない。津波が来るときの避難所ではない、中学校に移動してほしい」 と溜まっている人々を閖上中学校に送ってしまっていた。

市では大津波の際、最低でも3階の建物に避難させるという方針があったという。
結論から言うと、2階に居れば助かった。しかし、本震災の平均生存者避難階数は2.9F(ウェザーニューズら)。市は大津波への避難所の周知が徹底していなかったという点で問題があるものの、2Fで助かったのは結果論かもしれない。

津波に実感を持てない逃げなかった人々は立ち話などゆっくりと話していた。

■ここで運悪く、
中学校へ向かう車道は渋滞していた。
その先の交通量が非常に多い交差点のそばで死亡事故が発生していたためである。
公民館から閖上中学校は地味に距離がある。
非常に広大な平地である仙台平野の移動の常として、自動車が使われる。

信号は停電で当然全て機能していない。

このとき既に水門にいて海の変化を見た人、マンホールから水が吹き出しているのを見た人は我に返っていた。
この街がすでに海のものであるという現実に気付いたように。
町内で叫びながら避難、あるいは説得した。

大津波が来るぞ、逃げろと言っても全く信じて貰えず、自動車のドアを開け、ラジオを最大にして訴えた人も居た。
後の生存者はその時、
「あの人は(頭が)大丈夫か」
と思ったという。

「車から降りろ、逃げろ!」
降りて逃げる人もいたが、
「渋滞中に交通違反するわけにもいけない」
と車内にとどまった人もいた。

「海の方に煙が見えるよ」
そう子供がつぶやいたとき、閖上は―BBCの表現を借りると―「水拭き」された。

閖上地区の死者は人口の1割を超えた。

家路につくときの事故渋滞なら、ツイてないで済んだが・・・
(防災無線の故障原因などには調査結果がかなり妙なこともあるのですが、深く突っ込めないのでここでは記述しません)

貞観13年
この海岸にありがたい十一面観音像が
波に「ゆりあげ」られていたのを漁師が見つけた
それ以来この土地を
ゆりあげ浜と呼ぶようになった

海を去ること数十百里
どこから陸でどこから海か
原野も道路も すべて蒼

船に乗るにもいとまあらず
山に登るにも及びがたし

溺死するもの千ばかり
資産苗稼
何も残らず

(日本三代実録)

それはこの貞観11年の大津波とあまりに近い。

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閖上中学校の時計は14:46で停止した。

参考

NHK 巨大津波 その時ひとはどう動いたか
河北新報 2011/8/3 証言