東日本大震災 1

※こちらの連載は会社活動とは一切関係ありません。ただ代表の私が経験したことを記載していくだけのコーナーです。

2011年3月9日 午前11時

私はいつものようにパソコンに向かって作業中、かなり大きい揺れを感じた。
イスに腰掛けたままの姿勢で揺れの様子を見る。

様子を見れるくらいにはこの家は揺れに強い。鉄筋である。
私の家族はシロアリに家を一度潰されていたため、その際鉄筋に建て替えたのだ。
――木は美しいが弱い。
”いつか欲しかった日本家屋”を見るたび父親は言う。

「あっぶな 停電ギリギリか」

揺れが収まった頃にディスプレイに向かって独り言をつぶやく。
パソコンを使う仕事をやっていれば停電に怯える事はしょっちゅうある。
しかし最近は特に地震が多く感じる。

宮城県に住んでいると、ちょっと歳を食った人なら誰もが
「宮城県沖地震はそろそろ来るぞ」
という。
1978年に数十名の死者を出した地震で、私(30歳)が小学校の頃は、先生によく聞かされたものだった。

「あのときはすごい揺れでなあ ズルズルとヒザ擦ったんだ」

子供の頃からズルズルって表現にずっと引っかかっていた。多分、もうちょっと長い地震だったんだろう。
宮城県沖地震はこんなに小さいはずがないだろうし。

「そろそろ本震が来るかもしれないな」

耐震用の突っ張り棒などを締め直した。
特にモノが散らばったわけではないが、いろいろな家具やトレーニング機材、パソコン周りなどを綺麗に片付けておくことにした。
もし本震が来たときに逃げやすくなるだろう。
私には素人なりの予備知識があった。
「前震でM8の大地震が来たとしても、本震の威力は減ったりしない」

会社で使っているカメラをしっかりと棚の奥にしまった。カメラの高級なレンズは落とすと修理代が高い。
大した高さじゃなくても平気で6万円7万円と取られたりするものだ。

レンズは「標準ズーム」という何に使うにも便利なズームレンズをセットしておくことにする。
これは有事にすぐ対応出来るためで、儀式のようなものだった。
今まで別に役に立ったことはない。

(標準ズーム)

窓から見えるお向かいの瓦が数枚落ちていた。

連載 東日本大震災 -はじめに


– いつか来る。 いつでも来る。 必ず来る。 来なくても来る。

わずかな間でいいので、想像してみてください。

あなたが友達のみんなと一緒に海に遊びに来ています。
座っているあなたは「長い揺れ」を感じました。泳いでいる友達は気づいていないようです。

突然「大津波警報」の呼びかけが町内放送で行われはじめました。

そこは津波避難場所の看板もたくさんある町です。
揺れの小ささに疑問を持ちながらも、連日の東日本大震災の報道を見て、もちろんあなたは避難しようとします。

あなたが避難した場所はどのようなところか、
避難するまで何分かかったか、
頭に思い浮かべてください。

写真は被災した宮城県志津川の集合住宅の正面です。
津波避難ビルという大きい看板が防災意識の高さを物語っています。

集合住宅を海側から望んでいます。
4階に漁に使う道具が絡まっています。

1枚目の4階の入り口にもよく見るとスプレーで調査状況がマークされています。




想像した自分の行動はどのようなものでしたか。

友達のみんなは素直に逃げるという判断に従いましたか。
重いパラソルなどの荷物をまとめるのが先でしたか。逃げるのが先でしたか。
渋滞に捕まりませんでしたか。

4階建ての建物の高さを思い出してください。

逃げた場所は、どんなところでしたか。
津波を見ようと、中途半端な高台に逃げませんでしたか。
海から遠いだけで低いところではなかったですか。
避難場所は本当に津波に対して避難場所になりましたか。
想像した自分の行動に悔いが残った場合、何をすればよかったでしょうか。
※明治三陸大津波
津波の遡上高海抜 38.2m
最大震度 「3」

今回の東日本大震災 岩手県宮古市の例
津波の遡上高海抜 39.8m
津波の到達時刻 35分
津波の時速 「115km」

東日本大震災について

東日本大震災で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。

このブログで週1程度、代表やスタッフの東日本大震災時の経験を述べていく連載を開始していきたいと思います。

現在お金や物資協力のボランティアや自衛隊、警察、消防隊などのご協力を手厚く受けていまずが、
これは犠牲があってから行われる行為です。
言い方は悪いですが、「壊れてから、死んでから来る」のです。
人類にとっては「取り返しがつく失敗」かもしれませんが、個人にとってはしてはならない「取り返しのつかない失敗」です。
犠牲が払われる前にどのように準備するかはその地域の常日頃の努力がものを言うと考えています。

昨年往生した祖母が引っ越すたびに繰り返し「そこは津波が来るところか?」と警告していました。
津波が届く場所の家を守るという義務を感じつつも、津波の恐ろしさを繰り返し伝えるという相反する義務を果たしていたように感じます。

当社がインフラ以外の被害が出ずにすんだのはその警告と、
私が出身の大船渡より送られてくる親の厄年の解除記念アルバムにチリ地震津波の被害の写真が載っていたのを覚えており、
「津波がこないところ」という条件を意識したことに他なりません。(それでもかなり近くまで破壊されました)

今度は私どもが津波の恐怖を伝える番になりました。

復興への希望や、地域を盛り上げていく運動とはかけ離れたものとなるかもしれませんが、
津波がいかに恐ろしいものかを意識していただく一石になると幸いです。


(画像は大船渡の母方の生家。前のトラックには菊の花が添えられていました)