18 所感

「安心は慢心」 (産経新聞 2011 4/8より)

■「大爆発」という単語でも無反応な人々

本文中で述べたとおり、消防団が大爆発の可能性と避難指示を出した後の避難行動中に子連れの母、構内で待避命令が出た(これも確認済みである)製油所職員しか見ていない。
映画やドラマで「大爆発」という単語を市民が聞いたとき、人々はパニックを起こし悲鳴を上げながら逃げる。車は衝突する。
そんなイメージがあったと思う。なにせ今回は本物の爆発音のおまけ付きである。

しかし必死になって逃げるような人は少なくとも私の見る限りではいなかった。
そもそも、人は油断する生き物である。

「津波が(陸前高田の)病院の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようとしたんです(中略)と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治二十九年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が」
――我が国津波研究の第一人者がね。
(佐野眞一 津波と原発 講談社 2011)

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県立高田病院 – 岩手県 陸前高田市

「ここなら安全だと思っていたのだが」
「想像を遙かに超えていた」
「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」
「津波は怖い」

(岩手日報 2011 3/17より)

以上は山下文男氏のインタビューや発言から。

山下文男 – 岩手県大船渡市出身。津波災害研究者。「津波てんでんこ」(てんでんこは三陸に伝わる”自分の命は自分の責任 親兄弟もバラバラに逃げろ”の意味)を広めた事で有名。当日県立高田病院の4階で被災。4階からさらに2メートル近く水位が上がる中カーテンにしがみついて生還する。

この所感は「油断しなければ」「何も学んでいない」と油断を切り捨てるためのものではない。私はそもそも人間は(また多くの生き物は)油断するために生まれてきた生物であるとしか思えないからだ。

たとえば災害から華麗に逃げ切ってみせる、と思ったなら1000年に一度呼ばわりされる大津波より、誰でも知っている日常の災害から身を守るところから考えて見よう。
私が思うに日常の災害に油断していない人、というのは例えば最低限以下の3つの条件を満たす。

1.ブラック企業送りやリストラ対策に日々努力精進していること
これらは津波より現実的な災害である。

2.普段から生活習慣病対策が運動が十分で、かつ食事が栄養学・タイミングの面で理想的で、かつ健康診断を怠らないこと
生活習慣病はやはり四階まで上がってくる津波よりも現実的で、かなり悲惨な災害である。

3.人から恨みを買わないよう、悪口陰口を言わず、人徳と慈愛に溢れた生活をしていること
人災は最悪の災害である。

たとえば「ワキが甘い」という言葉はいかにも油断している人を刺す言葉だが、3を出来ていない人に該当すると思う。

そこいらを見回すだけで深刻な結果をもたらす災害からも目を閉じ耳を塞ぐ人間がほとんどであるということが解る。しかしこんな生活はストレスが溜まりそうだ、と感じたのでは無いだろうか。

草食動物のように寝る時まで立っているほど油断しないで生活することを考えて見て欲しい。すぐストレスが過剰になると思う。宮城県らしい表現をすれば、草食動物のカモシカもガケに居るときは油断している。
人は(生物は)安全だと思える場所で油断する、つまり安心することにより危険への警戒 ―不安― というストレスから解放される。

人は食事がある、病気や怪我を治す、と言うように安心出来る社会を発達させてきた。
安心とはそれだけ魅力的な存在なのではないか。安心出来る社会、とは油断できる社会である。つまり、「安全だと思える社会」を作ったということだ。どこまでやればいいのかよくわからない「安全」ではなく、「安心」という目的に到達するために発達してきたような人間が油断するのは自然なことではないだろうか。

しかし安心とは安全と違いただの感情なのだ。

沿岸に住んでいても、津波を知らなければ安心出来る。
しかし津波を知っていても安心するために安全だと思い込むのである。

ここまで高く来た記録はないから安全だ。
こんなに速く到達した記録はないから安全だ。
ここは海が見えないから安全だ。
毎回数十センチだから安全だ。

「ここなら ”安全だ” と思っていたのだが」