56 宮城県石巻市 津波火災

津波が燃えないとは、誰もいっていない。

 

-平均2.9階と平均1.7階-

東日本大震災で生存した人間と死亡した人間が避難した高さ。
(ウェザーニューズ、今村文彦東北大教授、矢守克也京大教授らの共同調査による)

_DSC5836

石巻にある門脇小学校はかなり海抜の低い位置にあり、海を受け止めるような方向を向いて建っている。
ここは津波の際裏山である「日和山」への避難を徹底しており、その成果が出て即座に避難、児童全員が無事だった。

ところがその後、災害時の避難場所がこの小学校に指定されているため、住民の一部が避難してくる。
(明らかに海から高くないようにみえるが、本震災の前までは2階まで届くだけで信じがたい大津波であったろうし、自動車でも到達しやすく、学校は余震でも崩れづらい。
裏にある「日和山」は観光地だが広くはない道路の連続であり、家屋倒壊・渋滞を考えると避難場所としては逃げ辛いかもしれない・・・そういうところもあったのだろうか)

この小学校は結果的に屋上まで水を被ったということだが、3階もあるし、屋上もある。小学校は大量のガソリンやエンジンオイルで満たされた車両群、あるいは破壊されたタンクから漏れた油、
また破壊された家などの木材が波打ち際の漂流物のように溜まり着火、大火災となった。
避難していた人々は裏の山にさらに逃げる事を余儀なくされた。

ootsuchi

(写真は大槌町)

避難所、もしくは避難所となった建物が焼き尽くされた例は他にもたくさんあった。気仙沼、釜石、仙台・・・・・仙台は避難所となっていた小学校に火が到達する前に、ヘリコプターによる夜間消火で食い止めたという。

3f

(建物じゃなくとも爆発や焼き尽くされる怖れがあるから逃げろといわれたのを思い出すが・・・・)

下記は参考にした読売新聞の記事からの引用である。

(水面で)油をバーナーで熱しても炎上しなかったが、木材を浮かべると一変。まず木が燃え、その7~8分後、火は一気に水面に広がった。
「油がしみて燃え出した木材が『ろうそくの芯』になり、放射熱で周囲の油が70~100度の引火点を超えた」とみられる。

想像力を働かせて、勝手に津波の限界を決めずに高台へ逃げるのだが、あまりに速い津波に対しては車両や木材が打ち寄せられるようなところから出来るだけ離れる余裕があるかははっきり言って解らない。
津波避難ビルなどよりも出来れば、山が良いのだろうが・・・

kadonowaki_tokei
たわんだフレーム、焼けた時計。屋上までしっかりと火が届いているのが解る。

 

県警によると、門脇小学校周辺では55の焼死体が見つかったという。

(※参考 読売オンライン http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1326213628956_02/news/20120111-OYT8T00097.htm)

トップ画像

一部だけ切り抜くとなんだかわけがわかりませんが、冬の天の川ですね。撮影場所は南三陸町です。

冬の天の川から夏の天の川へとチェンジしていきます。下の明るいのは光害ですね。

この光害は星の撮影には本当に邪魔なのですが、災害時にくらべずいぶんと明るくなっているのを実感出来ます。とはいえ、製油所の火災で空は真っ赤でしたが・・・・

冬の天の川は非常に薄く、田舎に行かないと日本では滅多に見る事は出来ません。

これからは夏の星座を楽しみにしたいところですね。

 

冬の天の川1000

55 宮城県石巻市4 ボランティア駐屯所 石巻専修大学

「最初の10日間の記憶がほとんど無い。当時のメモを見ても思い出せない」

石巻専修大学の事務員。河北新報ニュースより。http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110901_01.htm)

私立石巻専修大学は東京に本校を持つ専修大学が石巻に建学したものだ。

(一応付け加えておくと、私の母校である。私が学校に居る間、大学名を明らかにしつつテレビに幾度も出て視聴率をかなり稼いだことにより広告効果をもたらしたらしく、卒業生の中でもまだ教職員に憶えられているほうである・・・)

震災の影響でによる収入などの問題から、入学辞退が相次いだ。入学した生徒は例年の約1/3。

教職員、生徒数百名が避難していたが、「この設備を使って出来ることがある」と非常に素早くヘリポートとして、ボランティア活動拠点として解放された。避難者も受け入れた。

この大学の敷地は非常に何も無い空間が広い。そばを流れる北上川という川の氾濫時、遊水池となるためだ。そんなとき、冗談交じりにカヌー部がグラウンドだった場所に船を出す。

そこは貸せと言われれば貸せる。まあ、平らな広い土地だ。

しかし、拠点や避難所として解放する以上、「私立」には様々な障害要因がある。私立大学は学校ではあるが、同時に企業である。経営しなければならない。建物をいつまで避難所として解放していれば良いのか解らないし、ボランティアの拠点としてもグラウンドに張るテントだけではなく、救援物資貯蔵所が必要であり、また、活動拠点としての部屋を提供しなければならない。それらも期限など全く不明なため、授業に差し障りがあるかも知れない。教職員、生徒が行う事となった運営の苛烈な忙しさは冒頭の通り、記憶障害のような状態となったという。

しかし、この決断は異様に素早かった。災害時はとにかく速さが優先される。ところがこれがとてつもなく難しい。これができる難しさは大人になると解るだろうが、これは組織としての下地が出来ていて、かつ「責任は俺が取る」と言える「上」も必要だ。
この大学は「本校」と呼ばれる専修大学も納得させる必要がある。
本震災で数少ないリーダーシップを発揮できた例と言える。

この学校は比較的新しい。
石巻市が大学を誘致し、そのときに専修大学が名乗りを上げた。
誘致されたはずだったが、住民は賛成と反対半々に別れた。相当の反対運動、あまりおおっぴらに出来ない妨害もあった。歓迎ムードとはほど遠いものだったという。当時の局長は粘り強く努力し、建学にこぎ着けた。

ある職員は言う。
「いろいろあったが、反対された方々にも、今回役に立っていれば・・・・・」

この大学の建学の精神は、”社会に対する報恩奉仕”。

senshu_nyugaku
遅めの入学式を終えた親子と、ボランティアのテント群。 – 石巻専修大学敷地内 2011/5/22

54 宮城県石巻市3 大川小学校

「右手で枝をつかみながら、骨折した左手で土を掘った」
大川小学校5年生が、津波により埋まった友人を助けた際に。(※1)

 

_DSC5843

石巻の大川小学校は本震災最大の悲劇の舞台である。
108名の児童の74人が死亡・行方不明となった。

画像の通り、裏にはすぐ山がある。小学生でも上れる傾斜である。
「何故すぐに山に逃げなかったのか?」
これは大きな議論を呼んだ。

素早く山に逃げれば間違いなく助かった。

そう、「った」 と言う事が問題点だ。

■経緯

地震後校庭に避難。点呼を取ったのが15時頃。
山に避難するかどうかでもめる。
「山に逃げるか」
「この揺れでは木が倒れる」
「山は崩れないのか」

「大津波が来る」そう慌てて駆け込んだ母親がいたが、
「落ち着いてください」と話された。
「危機感がないようだった」という。
一部の親が自動車で駆けつけ、児童を拾っていった。
もめにもめ、地震発生から40分後の15:25分、津波が迫ってきたと解ってからようやく近くの校庭から6-7メートルの高さにある交差点に逃げようとした。
避難途中の15:37分、津波襲来。

■原因

この地区に大津波が来たことは数百年無かったとされている。

大川小学校はその名の通り川沿いにあり、海など見えない。

そのためもあってか大川小学校では、大津波警報が鳴ったが、どこに逃げれば良いのか決まっていなかった。津波の際の避難マニュアルには避難場所は「高台」とだけあった。
「津波が来るのは現実的ではない」と判断されたためだろう。
周囲の5小中学校のうち、1校は避難マニュアルさえ無かったという。

しかし川を4キロ遡ってきた津波は児童を一気に飲み込んだ。

津波が来た記録がめったにない東京都で、海から東京駅まで飲み込まれたと思えばわかりやすいのではないだろうか。

■おびえた山崩れの記憶と安心した津波の記憶

ここでは油断もあったが、油断しなくても判断基準が無いと「混乱」する事が解る。
さて油断に関してはさんざん書いたので、別角度から述べてみよう。これはあまり新聞もニュースも述べていないし、被災者も語っていない内容なので、何年か石巻に居たものとしての予想だ。

なので今回、「何故山に逃げなかったのか」というのを取り上げたいと思う。
まず、平時の精神状態では道の無い山など登れない。イメージ的には、密集した草木は壁と一緒だ。

次に、山なら津波は来ないのかと言うことだ。
2003年の三陸南地震時、私は石巻市に居た。地震後、大川小学校の裏山のような杉山は何カ所も、大規模に崩落していた。巻き込まれたら絶対に助からない。
しかも3年前の2008年岩手・宮城内陸地震では、内陸にある栗駒山大崩落による超巨大クレーター形成の記憶、土石流による巨大な被害の記憶がある。
不幸にもこの記憶がどこかにあったのではないだろうか?
そしてこの震災の少し前に発生したチリ地震津波は厳戒態勢で迎え撃ったがちょっと水位が上がっただけで終わり、拍子抜けした。この記憶も残った。

この結果にこの記憶は多少なりともかかわっているのでは無いだろうか。
私ももし同じ状況になったら、山が崩れる記憶がよみがえるかも知れない。

彼らは数百年も来ていない津波に、どう対処すれば良かったのだろうか・・・
あなたの居る場所は、そしてあなたの頭の中はこうはならないと言えるだろうか・・・・

 

ookawa

寄贈された「子まもり」像。冬になるとマフラーが巻かれていた。

 

※1「骨折した手で友人掘った」 児童証言、生々しく 74人死亡・不明の大川小
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110824/dst11082406590001-n1.htm

参考・・・避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小 読売オンライン
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110613-OYT1T00508.htm