大津波 8

しばらく続いた轟音がやみ、引き波が始まる。
水位が低くなり、ねじれるように破壊された黒い防波堤が顔を出す。
自動車、船舶、網のウキ、材木のようなものたちの様々な色が混じり合い、それらはまるで目的を持った人々の行列のように沖に向かって去って行く。

いつの間にか何件かある火力発電所の平屋建ての施設の壁が津波の方向にそった面だけ無くなり、文字通り筒抜けになっている。

私はカメラを持ちながら、あきれと感心が同居した顔をしていただろう。
その場に居た人々も、みんな唖然としていた。

多聞山から望む津波の光景はまるで陸地全体を船にして全速で沖に向かって走らせるような海そのものが右から左へ移動しているようだった。
轟音とともに青く分厚い板が陸地に -おそらくは無慈悲に- 突き進み続けた。

私は前述のようにこのあまりに大きい現象にあきれつつ感心しながら、詩のような言葉を津波の最中に何度も脳で反復していた。

押し寄せてきたものは死であり
押し寄せてきたものは破壊だった
故郷は無くなっただろう
せめてこの場に立ち会えたことに感謝する
彼の名は死なり 彼の名は破壊なり

私はもたらされたであろう破壊の原因である津波を目視出来たことにあきれながらも幸福を感じていた。どうせ「こんなもの」が来るなら現場に居たいと感じたのだ。
事故で自分の子供を失った親が最後どうなったのか状況を知りたがる気持ちのようなものだろうか、とも思う。

このあきれと幸福感について述べた当てはまるのではないかと思われる著書の一文を引用しておく。

「災害の衝撃が終わる頃、(中略)被災者は一種の虚脱状態におちいる。虚脱した心の中に生存を喜び幸福感を得る人間も一部いる一方で、あまりに悲惨な状態に唖然として思考がとりとめもなく混乱する人がいる」
(Hirotada Hirose 2004 “人はなぜ逃げ遅れるのか”)

“虚脱”が”あきれ”なのは間違い無くそのままで、”生存の幸福”が”安全な場所に逃げ災害を確認した幸福”と考えると、確かにもしこの津波を確認しなかったなら、自分がどれだけの危機から逃げたのか分からないだろうし、生存の幸福は薄そうである。

そして私の場合、訪れたこの幸福感には様々な確信が関与していたのは疑いが無い。
まず逃げ切ったと確信できたこと、次にこの津波の高さなら少なくとも住んでいる家と職場は残ったはずだと確信できたこと。

また家族に関して、 -後に詳しく説明することになるが- 「健常者なら今時津波で死ぬはずがない」という考えから、無事を確信していたこと。

さらに確信という面以外で幸福感に関与していたのは、津波は高台から見ているというのもあってか、目視した被害がねじ切られた防波堤と壁が無くなった火力発電所の一部施設、また乗用車や小型漁船の水没や流出程度であり、この津波の本当の破壊を見ていなかったからでは無いだろうか。
もし水煙とともに家が消し飛び、悲鳴を伴う殺戮を見ていたら、どんな感覚になったかはわからない。

そんな奇妙な感覚のまま自分の自動車に向かって多聞山の歩道を戻る。

この化け物によってもたらされたであろう決定的な被害を予想する津波を感じ取った顔の前面にある理性と
大げさだ、大した被害では決してない、という予想をする頭頂部と後頭部にある理性が決してお互いを理解しようとせずに無視し合い、勝手に何が起きているのか分からないことにしようとする頭がフワリと浮かんだ感覚がある。
そしてそれは、どちらも「感情」では決してないのである。はっきりと同じ理性同士の争いなのだ。

話に聞いていたチリ地震津波もこれほどの破壊力だったのだろうか・・・・?
様々な考えが勝手に浮かぶ中周りを見渡すと、この高台である多聞山に来たが海が見えるところに行っていない人はさらに状況が分かっていないようだった。

高台に避難した人々でも家を失った人はいただろう。しかし実際に自宅の破壊を確認していないから最悪の事態を想像できないのか、それともそんな人は家が心配になって真っ先に家に帰ったのか、この多聞山では結局悲鳴など聞こえなかった。むしろ人々は世間話に近い口調で会話し、あきれ笑いの方が多かったのである。

私は繰り返し何が起きたのかを想定していた。
理性では海に向かって突き出た地形である多聞山でこんな波の勢いなら、沿岸部はとてつもないことになっただろうと重々承知しながらも、もう一つの理性は全く聞き入れないのである。
「実はそんなに大きくなかった」「おまえはいつも大げさな奴だ、っていわれてるじゃないか」「被害があったとしても少し浸水した程度だろう」・・・・・

「”冷静に”考えろよ、実は大したことになっていないはずだ」

もちろんまだ被害などどうなっているのか分かっていない。ただ波が来たのを見ただけだ。しかしこの時から被害を実際に映像で見て、聞いても、何度も理性が理性のままその被害を認めようとするのを拒否するのである。
「君の家で本棚が倒れただろう?あのとき一緒に30くらい街が消えたんだ」

まるでそう言われているようなのだ。

みんな口をそろえてこう言うのではないだろうか。
「今も夢のようだ」

”悪夢 ”
というものは
冷や汗をかいて起き上がるようなものではなく
金縛りにあって驚くようなものではなく
おそらく

ほんとうの

15:50 宮城県七ヶ浜町 最大波到達 町内の約40%が壊滅

koinobori

こどもの日はだいぶ過ぎている。泳ぎ疲れてしまったであろう鯉のぼりはまだしまわれていなかった -宮城県七ヶ浜町 5/21撮影