68 所感 – 自粛 1

これは難しい話になる。
短い文にまとめただけでは、誰も納得しない問題だ。

被災地にあるものの、設備は被災を免れた塗装工さんとの話である。

――お仕事増えました?
「ええ、ものすごく増えた」
――いいですね。結構儲かりますか?
「それがね、どうしてもいつものお金を取る気にならないんです。だからあんまりお金にならないんですよ」

そういった話をすると、「復興という名のビジネスチャンス」と捉えた企業の取り組みにネガティブなイメージを持たれているのではないかと警戒される。
実際にはガンガン地元に金が落ちてきた方が復興も早いはずだ。
キャバクラに勤める女性は震災後一時的に売れ行きがあがったと話してくれた。(なぜ一時的で終わってしまったのかはこれまた様々な要素があるらしく、難しい話になる)

もちろん無意味なものをあたかも役に立つように売りつけてきたり、常より高い金額でふんだくるような行為は平時でも許されないわけである。(残念ながらふんだくるような行為は一部で行われているようだが)

塗装工さんは「普段通りの請求」という権利、即ち儲けを自粛している。
自分の家が残っているのも申し訳ないという人も居る。自粛とは何なのだろうか。

これはかなり人間の深いところに切り込んでいく必要がある。
私如きがどうこう言えるか難しいが、それでも何かの役に立つかも知れないと言うことで、実際にあったことから考えていくことにしよう。

石原都知事は「花見を自粛するように」といった。理由は本人が言うように、我慢、連帯感等の精神的なものである。
これを受けて、「被災地の経済活動に打撃が加わるため、花見を自粛するのは合理的ではない」という花見自粛非合理的論が展開した。
次に、「警察や仮設トイレは被災地へ行っているし、節電中である」花見自粛合理的論も現れた。

この議論は無視できないレベルでの「アンチ花見酒」論者や「アンチ石原」論者の介入により、混沌を極めたように思える。

まず自粛とは関係ないが、「石原発言」について述べておく。
「この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」

この意見はものすごい勢いで「不謹慎」「許せない」と否定されていたが、私の知りうる限りの現地はどうだっただろうか?
石原発言を知る被災者は「そうかもしれんなあ・・・」という意見を上げたり、特に何も述べず、怒ってる様子や悲しんでる様子もなく、コメントが難しそうな顔をする反応が見られた。

流石にこれだけだと判断が難しいだろう。だが、石原発言など知らない小学生の作文では
「人が科学を信じすぎ、調子にのりすぎたのではないでしょうか これは自然の罰だとおもいます 私たちは反省するべきだと思います」
という論調の作文が多く見られたのである(NHK 他)(同様に、海が嫌いになりました、海が憎いという作文も多数見られたということを付け加えておく)
これは石原発言とほぼ同一とみて問題はない。

被災者の小学生がいうとなると、罰、というのを「油断、想像力欠如(現状で十分だという我欲)に対するペナルティ」と真意を理解できる。理解しようとする。「石原都知事」ブランドのサングラスは取り去られているからだ。天罰発言を否定していた大人も賛同する。防災無線は動かず、防潮堤を信じ流され、津波を恐れずに流され、手抜きの原発は壊れた。これらはペナルティである。
罰、とは宗教的な表現であり、東北人がそんな悪い事をしたのか、という方向に捉えてしまった人も居るが、宗教的な表現を宗教的なまま捉えるのは問題がある。
被災者が「地獄だ」と言うのに対し、「血の池もないし、針の山もないじゃないか」というようなものだ。

たしかに天罰発言に関しては、「いい方」が一般受けはしないと思う。
さらに、
被災地と関係ない距離から、いい歳をして、政治家が、
という要素が強い。
ただ一般的に反対意見が出るのは良いとしても、個人としての人間で見ると、発言の真意を捉えようとすることが学ぼうとする人としての立場、姿勢だと考えている。「この人間は嫌いだ」という姿勢は考えがそこで止まってしまうし、矛盾が多く孕まれる。人間らしいとも言えるが・・・・

2に続きます