78 東京電力株主総会 1

東京都・芝公園。セミがうるさい6月末。
東京電力株主総会の開催場所である。

父は水産加工業の会社に勤めて”いた”し、我が家には親戚にも水産物の養殖・水産関係者が多い。放射能の影響はあるのである。
しかしここにわざわざ居るのは(金を捨てるような真似をして・・)そういった理由が大きいわけではない。

これは高校生以上なら日本人が全員参加してもいいと思う。というより日本人に限った事でなく、世界同時中継でもいいと思っている。

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株主総会参加者が延々と続く2~3列での行列。
それを囲むように大量の警察による警備。その外では本当によくあるテレビドラマの光景が展開されている。女性のレポーターがテレビカメラに向かってガチャガチャまくし立てる、あの光景。
スチルカメラの量もとてつもない。60万近いカメラを2~3台ぶら下げたカメラマンが何十人も居る。箱根駅伝のゴールと良い勝負であるが、こちらの方が重装備で物々しい。
さらにその外を反原発の団体が黒山の人だかりを作り、プラカードや上りを掲げて叫んでいる。

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あまりに参加者が多いせいか、牛歩のようにゆっくりと会場の敷地内に近づく。予定時間はこの時点で過ぎている。株主総会参加者以外立ち入りを禁止される狭い通路に入ると、マスコミや反原発団体の喧噪がゆっくりと聞こえなくなる。同時に、回りの小声も聞こえるようになる。

すぐ後ろに居る若い男女の女性がいう。
「ねーねー、なんか凄いね」
男が返す。
「そりゃ、テロ起きちゃうかもしれないぞー」
「えー、やだ、ほんとー?」
女性は素直に驚いたようなリアクションだ。

より深く入っていくと、「黒服」がこれまた大勢で壁を背に警戒している。

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会場のホテルのドアを開き、さらに深い所へ。
ここからの撮影は禁止されている。

荷物検査場兼受付は会場のすぐ前にある。たくさんの検査・受付係がおり、各々空きを見つけてはチェックを受ける。
ここで検査と同時に、株主総会参加に必要な「はがき」を見せる。
「どうもありがとうございます」
係の女性は言う。

荷物検査はバッグの中の荷物を少し押し分けただけで、チェックはザルだ。少なくとも”拳銃”サイズのものなら、持ち込みは容易であろう。

会場は非常に広く、何部屋もある。ナマで経営陣に会える部屋は一部屋で、それ以外はモニターを通し経営陣を見ることとなる。

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77 以北沿岸

今後また調査が進んで行くと思いますが、代表的な被災のパターンが紹介し終わったので、今回は主に写真で紹介が中心となります。

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大槌町では町長らが災害対策のため地震直後に役場に集合。想像を遙かに超えた津波に襲われ死亡が確認された。

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民宿に打ち上げられた高速双胴船はまゆり。その異様な光景からの本震災の被害の象徴とされた一つである。

宮古市周辺の沿岸部では、戦争なら無視されるような小さい集落もことごとく破壊されていた。

細かく山間に点在する町々が潰されている様は瓦礫の密度が高く、生活に使われた様々な色が混じり合い、大きな生き物が内臓を晒して横たわっているようだった。

宮古市田老町は巨大防波堤を作った第一の町といっても過言ではない。明治の津波で人口の8割を失う被害を出し、昭和の津波でも人口の3~4割を失った。
それを教訓に建てられた津波田老の万里の長城といわれた防波堤は、チリ地震津波で被害を出さなかったものの、残念なことに住民の安心から被害を拡大したとも言われる。

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「鳥はいいよね。飛んで逃げられる」 – 田老

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田老町にあった車。Xマークは遺体発見を意味する。

 

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青森県。こんなところまで道路には不釣り合いに巨大な船舶が打ち上げられている。

「どこだったっけな。防波堤の外側に家を建てて、津波大丈夫ですかね?っていうと、60年に一回くらいだからその時建て替えるんですよっていったおっちゃんが居てね」
「今年は何年目なの?」
「あんまり経ってない」

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被害全容。時期が混じっているので、全て最新ではありません。

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時期は5月。東北では桜の時期。折れた桜も各地で最後の花を開かせていた。

 

下は同一の工場を別な角度から撮ったものです。

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76 岩手県釜石市 – 徹底教育

釜石の防災教育が始まったのは2006年。
最初に子供へのアンケートを行った。

――家に一人で居るときに大きな地震が発生しました。どうしますか?

ほとんどの解答は
「お母さんに電話する」
「親が帰ってくるまで家で待つ」
というものだった。

そのアンケート用紙に質問文を添付し、親に見せるように指示した。

――子供の回答をご覧になって、津波が起きたときに、あなたのお子さんの命が助かると思いますか?

釜石は予想を遥かに上回る大津波に襲われたが、当校中の小中学生全員が生存した。

(参考 WEDGE 2011/5 32P)

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岩手県釜石市

人口約40000人弱(震災当時)
死者888人
行方不明者156人
(2012/4 現在)

■ギネス防波堤の大敗と産業

釜石は一時期世界一の強力な防波堤を抱えていた。海の深いところから屹立し、震災の半年前、水深でギネス記録に認定されている。海外からも視察に来るほどだった。

防波堤・防潮堤の必要性に関しては震災後に様々な議論がなされている。

「少しは耐えたはずだ 逃がす時間を作れた・・・意味はあった」
「エネルギーが増大し、破壊がより大きい規模となった・・・金の無駄だ」

それ以外にも、安心して逃げ遅れた、という声も無視できないほど大きい。
ただ、実際に津波を防いでいる普代村もある。

本震災の大津波を防げずとも、1960のチリ地震津波位なら防波堤は防げただろう。数mの津波を1~2回防げば十分に建設費の元は取れるのかもしれない。
海沿いの工場地帯は細かい津波でも被害を受けると洒落にならない。なので防波堤や防潮堤が無いのを嫌っていると現地の勤めている連中から聞く。
確かに、無防備というのもイヤだろう。沿岸部の工場も2mの津波警報くらいなら「大丈夫だろう」と落ち着いていたいところである。

必要派から見ると完成直後に遡上10m~40m級という圧倒的な大津波が来た不運もあり、防波堤・防潮堤反対意見が増えた。

「三陸は120年の間に最大遡上20-40mクラスの津波って明治、昭和、平成で3回も来てるって話だよね?チリ地震津波が例外に低いだけじゃない?それで細かい津波防ぐくらいなら、災害時の補助金に使った方が・・・」
そういう意見もある。

これは難しい話だ。三陸は確かに防波堤で防げない津波が多すぎるのである。
いつ来るか解らない大津波にどう沿岸部の産業は対策を打てば良いのか?

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乗り上げた巨大船舶。 無事この後海に出ることが出来た – 釜石市。

■釜石の徹底した津波対策教育

群馬大学大学院・片田教授は防災教育を共に進めることを三陸の自治体に申し出た。
釜石市は防波堤の完成、長い間来ていない大津波、指定避難所に行けばよいという様々な要素から市民の油断が拡大、津波警報時の避難率も低下していたのに頭を悩ませていた。渡りに船と受け入れた。

ところが防災講演を行っても、参加者はそもそも防災意識が高い人ばかり。教育者から防災意識を高めて貰おうと思うも、教師は忙しい、と危機感が薄い。

そこで昭和三陸大津波の経験者でもある釜石市教育長に相談し、理解を得た。平日の午後、全校を休校扱いにし、防災講演会を行うほどだった。

こうして冒頭のアンケートから津波対策が始まる。時は2006年。震災の5年前だ。
子供を守ろうとする親の心理に訴えた巧妙な方法が、「大人からの意識改革」に功を奏する。

数学の教科書にモノクロで遠目の津波被害者写真を掲載し、被害者数を詳しく載せ、避難時間を計算させる授業、また国語、理科にも津波を絡ませ、被災後の炊き出しを想定した家庭の授業を行った。

また釜石では阪神大震災で全く役に立たなかった「想定」の完全敗北の経験から、「想定にとらわれるな」と徹底した。ハザードマップなど信じるな、と。

釜石では避難所までダッシュという訓練、体力のない低学年、けが人をリアカーに乗せて逃げるという想像を絶する訓練を積んでいる。
被災当時も中学生が、或いは小学生高学年が避難を率先し、体力のないものを助け、より高くより速く逃げた。
率先して逃げればみんな真似して付いてくる、困っている人は助けるというスタンスである。

よく言われる「津波てんでんこ」は「バラバラに逃げよ」という教えである。この助け合いは方向が異なるように思えるが、てんでんこは「家族を信じろ逃げている」という意味合いが強く、逃げる途中で困っている人を放置して逃げろ、という意味では必ずしもない。

人間は困っている人を放置して自分だけ逃げることを嫌うものも多い。そういった習性をよく利用したものと言えるかもしれない。

小学生でも数十センチの津波でも死ぬことを知っている釜石。
異常なまでに徹底された津波防災教育の結果は生存率となって現れた。
この防災教育の徹底ぶりがギネスに登録されるべきだったのかも知れない。
結果、当校中の小中学生全員が生存した。

釜石の死者・不明者は65%が浸水想定範囲の外だった。(群馬大学大学院片田教授・釜石市ら調べ)
想定はあまり役に立たなかったのである。

 

(参考 WEDGE 2011/5)

75 釜石の夜 – 警察

お酒を飲み始めた頃に、パトカーがやってきた。もちろんすでに車は駐車場の中であり運転はしないので安心であるが、これまた野暮なタイミングではある。2人組の警察官が降りてくる。パトカーには大阪府警とある。

「どうもこんばんは、ここでなにやってるの?」
「車中泊です」
「じゃあちょっとトランク開けてみてくれる?」

職質が始まる。職質は警察官の「印象」で強力に左右されるのはご存じの通り。
賛否あれどこれこそが日本の治安を守っているという説もある。メリットは大きい。
あまりに身近なので詳しく語れないが、「職質で御用」は治安の悪い地域ではかなりありがたいのである。
幸いなことに、私は職質を受けてもどちらかというと悪い印象を持たれないほうだ。

「・・・・・・・なんも怪しいものは出ませんね」
トランクに積んであるのはカメラ用三脚と車のジャッキ、タイヤ交換に使うレンチくらいである。
印象次第では職質は膨大な時間に及ぶ。2時間以上もない話ではない。うかつに三脚に泥を付けていると、どこから持ってきた(拾ってきた)わけ?で長い話になるかも知れない。

「どこの人?」
「宮城ですが実家が大船渡で見に来たわけです 家がないのでここで寝るわけです まあ昔大阪にも住んでましたよ ほら難波中」
「ああ、そう!詳しいね!・・・大変だったでしょう。ガタイいいですね。職業は?」
「IT パソコンを使ってね、プロ」
「レスラーか やっぱり・・・」
「プロ”グラマー”ですよ」

ここでもう一人の警官がバイク用グローブを見つける。
「この凶悪なグローブ!これで・・・こう!」
警官は妙に肩を入れた動作で空間を殴る。
「いやバイク用ですから こっち大阪と違って寒いでしょ?凄く寒いと車暖房入るまで時間がかかるんですよ 昔原付乗ってましたしね・・・スズキのセピアZZ」
「にしては凶悪過ぎるな!絶対殴るでしょ?」
「いやなぐんないですよ!」
手で違う違うとジェスチャーをする。
「腕も太いね なんかやってるでしょ?」
「パソコンばっかりだと運動不足になるでしょう・・・」
「いや、そんな腕にならないよ。なんかやってるでしょ。」
「いやたまにアームレスリングとかしますけど」
さきほどグローブを発見してきた2人目は言う。
「・・・・・・?なんだかもったいない気がしますね・・・」
(絶対「格闘技」とか言わせたいんだろ!そうは行かねーぞと思いつつ)
「だから、ね、職業言ってくれれば、すぐ私らも帰れるんだよ」
「だからプログラマーですって!プログラマー!帰れますから!」

しばらく後。

「まあ気を付けてね!そんじゃまた!」
警官たちは15分ほど話を聞いて立ち去っていった。
バイバイと手を振る。向こうも被災地での空き巣が多いので注意しているものの、最初から我々に空き巣の気配をあまり感じなかったことは想像が付く。

警察

信号は8月まで停止している地域もあり、真夏の炎天下でも北海道から沖縄!全国中から派遣されてきた警察官が信号機の代わりに手旗を振る。
ごくろうさまです、と頭が下がる思いである。
しかし、自衛隊員や消防団・消防隊員に比べると警察官はあまり感謝されているのは見ない。被災地を縄張りに暗躍する空き巣をたくさん捉えていたようだ。そして不明者捜索なども行っていたが・・・・何故だろう?
普段の「点数稼ぎ」と呼ばれる交通違反取り締まりなんかで怨念があるのだろうか・・・・
ボランティアが職質で何時間拘束されただの、そんな恨み話も聞く。
(実際ボランティアに扮した空き巣の噂は良く聞いた)

9月・10月になる頃、多賀城では手旗を見なくなった。信号機が自動化するまで多賀城ほどの大きめの都市でも6ヶ月以上かかったということになる。

落下物と道路工事にお気をつけを 2

がれきの処理関係で落下物がさらに増えています。非常に多いです。特にがれきとして運ばれていた自動車のバンパーのようなものが落下しているのをよく見ます。注意して走行し、重大な事故に繋がらないようにご注意ください。

また、高速道路だけではなく一般道でも震災で傷んだ道路工事がどんどん行われ、増えています。予想外な場所で工事が行われているかもしれません。工事現場に突っ込んだりしないよう、スピードを出しすぎないようにご注意ください。

6/6 水曜 7-14時は金星日面通過です。
ただの三日月のように見えますが、一応部分日蝕の画像でも・・・
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夏が来ました。
今年も電気をうっかり多く使うと国賊扱いされそうな勢いです。

宮城は7月に第二の冬、梅雨を向かえます。この時期は非常に寒く、コタツを出したままの家もあるくらいです。
雪こそ振らないもののこの寒さは冷夏で追い打ちがかかると非常に恐ろしい存在になり、飢饉の原因となりました。
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規則正しい睡眠、的確な水分・栄養補給、(ジムの中での)ハードトレーニングで夏ばて対策をしましょう。

74 釜石の夜

釜石で日が暮れ、宿泊することにした。
当然震災に見舞われた沿岸部である。宿はない。
田舎だと自販機5台に駐車場50台分、といったトラックドライバーが一眠り出来るようなところがたまにある。
道路を新設する工事の時よく見る、プレハブ群があったような広場がそのまま自販機&駐車場になったといおうか。
そこで車中泊をする事とした。
お疲れ様という事で軽く飲もうかとお酒を買いに行く。

なかなかのスペースがある酒屋だ。先客の2人組が店主である老年の女性としばらく話した後、酒を買って帰っていった。

余震で倒れてこないようにヒモが張ってある棚に置いてある”ぶどう液”を見つけて、
「ぶどう液。これうまいんだぜ」
同乗者のSに言う。
「なんなん?」
「ものすごい濃いぶどうジュースみたいなものだな。子供から年寄りまで、うちのあたりじゃ大阪でいうたこ焼きみたいなもんだ」

大阪ではたこ焼き器が一家に一台あるという。ぶどう液は大抵冷蔵庫に入っているものだ。

「無いわよ」
店主はいう。
「ぶどう液が無いとカッコが付かないから棚に置いてあるだけよ。高田はあの通りだからね」
ここらへんのぶどう液は皆、陸前高田で作られていた。

「あなた詳しいわね ここら辺の人?」
「まあ・・・大船渡出身ですね」

「あら!そう・・・大変だったでしょう・・・さっき仙台から記者が2人来ててね・・・あなたも見たでしょ・・・話聞かせてくれっていうからね、もっと速く来なさいって返しちゃったわよ」

同乗者(仙台出身)「・・・・・・・・・・」

「な、なるほど・・・・ここまで来たんですか」
「来たわよ・・・・・ちょうどこの前あたりまでね」
店の入り口からどこまで津波が来たか指をさす。

「家が無事でも、夜になるとあのときの声が聞こえる、といって避難所に戻ってる人もいるからね。お酒もごく一部か、さっきみたいに外からの人が買うだけで誰も買わなくなってしまった」

自粛的な意味もわずかにあるだろうが、そもそも被災地では自粛云々というより家ごと無くなった人が多い。

「なるほど・・・・」
「ここもやめようかと思ってね」
「えっ やめちゃうんですか?」
「人が来ないからねえ」
「そうですか・・・・・じゃあいいお酒買っていきますか・・・・」
「そ、そうすね・・・・」
同乗者も同意した。

「そこの大吟醸と限定の泡盛を」
(何故か知らないが、岩手なのに泡盛も作っている会社らしい)

「ありがとうね、どうもありがとうね・・・・」

こうして何とも言えない気分になりつつ駐車場に戻っていく。

ほんとに酒を買いつつ目につかないところで、という通りになった訳だが・・・・