17 所感

終わってみれば悔いだけ残る
油断という名の選択肢

東日本大震災-106
背負った子供は無事だったのだろうか – 宮城県七ヶ浜町 5月

ここまでの所感を述べる。

「誰か助けてくれ」ではなく「あんた、助けてくれ」

非常に重要な事なので先に述べておく。
この話では私が具体的な目線で、要するに名指しを受けて助けを求められている状況に遭遇している。これが「誰かどけてくれ」だった場合、ご想像通り、少なくともすぐには場所は空かなかっただろう。
本震災でも美談はたくさん聞いたと思う。人間悪い人ばかりではない。助けられるなら困っている人間を助けたいと思っている人は多い。そんな人に”指名”すると”立候補”を求めるプレッシャーも無くなりそうだ。

この避難所ではみんな座ったり横になっているから声を出し続ければいずれ誰かが場所を譲ってくれるかも知れないが、早歩きで道行く人々が相手となると状況はさらに厳しくなるだろう。

これも同じ状況を説明している箇所が(また・・・)広瀬弘忠氏の「人は何故逃げ遅れるのか」に書いてある。
わかりやすく要約する。

”救援者を指定しないと助けを求められたみんなは「他の人はどう動くか、動かないなら俺も動かない」「危なそうだから近寄らない」などの普段のモードで考える結果、傍観者となる。救援者を指定すると、指定された人物は他の無駄なことを一切考える余地が無くなり、つまり非常用のモードに切り替わり救援に入る その救援者は、時に自らの命を捨てる事になるまで助けに応じてくれる”

とのことだ。例では海外でのケースが採り上げられており、「あんた、助けてくれ」はどこでも通用することを表す。
経験してみると助けを求められたときの「ん?僕」と言う反応は・・・確かにモードが切り替わった感じがするのである。

ちなみに、暖かい場所を奪ったら絶対に離さないというケースも避難所で散見された。
東北の冬はあまりに寒い。私はこれを責める気にはならない。
ただ助けを求める相手は少しは選んだ方がいいかもしれないと言う事だ。