※どちらかと言いますと所属する開発者グループ向けのブログとなります
本日のネタは
果てなき渇望 (草思社文庫) http://www.amazon.co.jp/dp/4794219032
という本のアドベントカレンダーだ。
この本はボディービルという競技に夢中になった人々を取り上げたドキュメンタリーだ。
こんな日に「今日の予定?スクワットだよ。メリー・クリスマス」というような連中の話である。
日本ではボディービルの扱いは中国、イタリアなどと並んで悪いのだそうだ。ボディービルは巨大すぎる筋肉とミミズ腫れのような血管が異様だし、ステレオタイプのマッチョに期待するのと反して身長が低い方が有利と言うのもあるのか、日本では一般受けしないのかもしれない。
(だが彼らの名誉のために言っておくと、日本でも「ボディビルの競技に必要な仕上がり」から離れられる、競技の時期ではないビルダーやボディビルトレーニングを好むだけの広義のボディビルダーの場合は、血管を出す必要もないからか一般層にもウケが良かったりもする)
何というか、競技としてのボディービルはあまりウケが良くない・・・奇妙で、滑稽な扱いを少なからず受けてしまっている。
そんな競技に夢中になってしまった・・・徹底した人々を描いている。
ところが、夢中とは生やさしいものではない。特にこの本で異常な、あまりに生々しいパートはドーピングを厭わずにボディビルで世界クラスを求めてしまった男たちの物語である。
世界クラスは、別次元だ。なんというか、ある日本のトレーニング誌出版のスタッフの若い女性曰く、「日本人はやっぱり・・・小さすぎて・・」だ。
筋肉増強剤を投与し肉体がそれに対抗しようとし女性ホルモンを分泌する結果、乳房がふくらみ、母乳が出ることもある・・・・そういった副作用を丁寧に潰しながらボディービルで勝つために徹底したドーピング計画を組む男
或いは、殺人を犯してしまった男
彼らに詳細にインタビューし、その過程を「彼は今、まずいところまで入り込んでしまっている」と感じとれるような臨場感をもって表現している。当然本書はこの点で有名で、ご多分に漏れず本エントリーでもその例に触れたい。
断っておくが、ボディービルだけがそういった競技というわけでもない。身近なところでは野球、相撲・・・最近では有名なところでは自転車競技のランス・アームストロングが記憶に新しいし、毎度オリンピックでは毎回とても多い人数が「ばれる前に出場を辞めて欲しい」とアナウンス通りに出場を辞退している。今年、ジャマイカ勢を代表するアサファ・パウエルが陽性となった。海外のあるボディービルダーのインタビューでは、ドーピングに年間1000万円以上かける男もいるらしい。
ドーピングが敬遠される理由は健康への害の他にも、経済的要素も関与するため、フェアプレーの理念に反するとされている。
ドーピングは日常生活でまず触れない異様な話である。それ故に、興味を持たれることも多い。もしある程度以上トレーニングをしているのなら実際に使用者と話題に触れたことがあるはずだ。たとえば私はあるビルダーに突然腕を握られて、「へえ ほんとに”打って”ないんですね」と言われたことがある。おいおいなんだそれ!そんなんでわかっちゃうわけ?
さて、ある人がある競技で絶対に勝ちたいと思ったとき、そしてその競技の人口が多く煮詰まっているときに、競技というのは徹底できたかどうか・・・たとえボクシングであっても・・・結局最後は自分との戦いなのだが、その際たいていの場合で衝突するのは「遺伝的な限界」である。つまり才能と表現されるが、劣っているなら克服しなきゃ行けないし、同じ程度ならぬきんでる必要がある。主にドーピングで解決するのは少年誌のイメージのスマートな才能というよりも、もっと単純でシンプルなものだ。パワー、スタミナ、スピード、体重・・・痛み止め・・・・集中力・・・・
(日本は極めて精神的なものを重視する国であり、努力である程度何とかなるのではないか、と思われている範囲が非常に大きいと感じる。海外だと容赦なく「遺伝的素質”genetic-factor” に恵まれ」というところを、日本だと「才能に恵まれ」と言う言葉遣いが多いと感じる・・・なんだ?どう訳す?タレント?なんというか、後者だとうやむやな感じがしてごまかせる響きがある。才能を感じない人物に「私は遺伝的素質で恵まれていますか」とはっきり質問が来れば、かなりの哲学の持ち主じゃない限り意義を感じさせるような会話につなげられないのではないだろうか)
絶対に勝ちたい、諦めるつもりはないと思ってしまったのなら、少しでも勝てる確率を上げるのなら・・・今、またはいずれ衝突する遺伝的な壁を突破するしかないのだ。つまりドーピングである。こういうことだ。
「ドーピングをしないというのは本当に本気でどうにかしたいと思っていないだけだ」
「あらゆる手段を尽くすことを放棄している」
本当に、本当に、本当にどうにかしたい。つまり渇望である。
砂漠で渇ききった人間が優先順位という概念を放棄し、0か1かで水を求めるように勝ちたいのである。
「真剣にやることは素晴らしい」というフレーズは大概ジョークが通じる・・・つまり、余裕がある領域での話である。このドーピングの章は、ほんのちょっとジョークが通じなくなってしまうほどに”世界クラス”に渇望をしてしまったのかもしれない。ドーピングは単に徹底した姿勢の一つの結果である。しかし、アメリカ州知事のアーノルド氏の「ステロイドを使ったことを恥だと思ったことは一度もない」と言うような台詞が通用しない国だ。彼らはちょっとやりすぎてしまった。
殺人も徹底した結果に附帯するものだったのかどうかは不明だが・・・
私はこんなにも何かを求めることはあるのだろうか・・・・求めなくて良いなら、そもそもそれで良いのではないか・・・「戯れ」で良いのではないか・・・真剣とか徹底って意味、わかってる?ってことか・・・
こんなげーむにまじになっちゃってどうするの、という教えを思い出してしまうのである。
スクワット?僕はさっき終わったよ。メリー・クリスマス。