夏が来ました。
今年も電気をうっかり多く使うと国賊扱いされそうな勢いです。

宮城は7月に第二の冬、梅雨を向かえます。この時期は非常に寒く、コタツを出したままの家もあるくらいです。
雪こそ振らないもののこの寒さは冷夏で追い打ちがかかると非常に恐ろしい存在になり、飢饉の原因となりました。
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規則正しい睡眠、的確な水分・栄養補給、(ジムの中での)ハードトレーニングで夏ばて対策をしましょう。

74 釜石の夜

釜石で日が暮れ、宿泊することにした。
当然震災に見舞われた沿岸部である。宿はない。
田舎だと自販機5台に駐車場50台分、といったトラックドライバーが一眠り出来るようなところがたまにある。
道路を新設する工事の時よく見る、プレハブ群があったような広場がそのまま自販機&駐車場になったといおうか。
そこで車中泊をする事とした。
お疲れ様という事で軽く飲もうかとお酒を買いに行く。

なかなかのスペースがある酒屋だ。先客の2人組が店主である老年の女性としばらく話した後、酒を買って帰っていった。

余震で倒れてこないようにヒモが張ってある棚に置いてある”ぶどう液”を見つけて、
「ぶどう液。これうまいんだぜ」
同乗者のSに言う。
「なんなん?」
「ものすごい濃いぶどうジュースみたいなものだな。子供から年寄りまで、うちのあたりじゃ大阪でいうたこ焼きみたいなもんだ」

大阪ではたこ焼き器が一家に一台あるという。ぶどう液は大抵冷蔵庫に入っているものだ。

「無いわよ」
店主はいう。
「ぶどう液が無いとカッコが付かないから棚に置いてあるだけよ。高田はあの通りだからね」
ここらへんのぶどう液は皆、陸前高田で作られていた。

「あなた詳しいわね ここら辺の人?」
「まあ・・・大船渡出身ですね」

「あら!そう・・・大変だったでしょう・・・さっき仙台から記者が2人来ててね・・・あなたも見たでしょ・・・話聞かせてくれっていうからね、もっと速く来なさいって返しちゃったわよ」

同乗者(仙台出身)「・・・・・・・・・・」

「な、なるほど・・・・ここまで来たんですか」
「来たわよ・・・・・ちょうどこの前あたりまでね」
店の入り口からどこまで津波が来たか指をさす。

「家が無事でも、夜になるとあのときの声が聞こえる、といって避難所に戻ってる人もいるからね。お酒もごく一部か、さっきみたいに外からの人が買うだけで誰も買わなくなってしまった」

自粛的な意味もわずかにあるだろうが、そもそも被災地では自粛云々というより家ごと無くなった人が多い。

「なるほど・・・・」
「ここもやめようかと思ってね」
「えっ やめちゃうんですか?」
「人が来ないからねえ」
「そうですか・・・・・じゃあいいお酒買っていきますか・・・・」
「そ、そうすね・・・・」
同乗者も同意した。

「そこの大吟醸と限定の泡盛を」
(何故か知らないが、岩手なのに泡盛も作っている会社らしい)

「ありがとうね、どうもありがとうね・・・・」

こうして何とも言えない気分になりつつ駐車場に戻っていく。

ほんとに酒を買いつつ目につかないところで、という通りになった訳だが・・・・

73 所感 – 自衛隊

自衛隊は凄まじい働きを見せた。
何冊の本、何本の映像になったのかは解らない。

このどうしようもなく広範囲にわたる破壊下でさえ、一軒一軒から大事にしていたであろう品を道路脇にどけておく・・・・

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アルバムのようなものを確認している自衛隊員。

今回浸水地域に近い出身の自衛隊員である知人は、被災地派遣に希望したが漏れた。重要な役割があったようだ。
確かに彼は航空自衛隊で、さらにロシア・中国は被災後領空侵犯を繰り返したとされている。災害派遣をして貰っているため、日本としてはこれに対して強く出れなかった。外交は右手で握手し、左手にナイフを持っているとでも言おうか。
彼はナイフを抑える立場である。ひとしきり行きたかったとわめいているが・・・。

私は記者ではないので活動中の自衛隊員と話したりはしていない。ハタから見たら特に3月中旬~下旬に目撃した自衛隊員の疲労の色は濃かったように見える。近所に多賀城自衛隊という宿泊施設があったろうなので、七ヶ浜はそれでも元気な方だったのだろうか・・・・?

 

■救援活動

過酷な現場だ。分厚い瓦礫に安全靴だけで太刀打ち出来るものではない。怪我も多かっただろう。
陸前高田の例のように、目の前にあるガソリンに触れられず給油もままならない「縦割り」状態だったが、それでも素早い対応だったと思う。
私の逃げた避難所にはまるで震災前から準備されていたように発電機などの配備が速かった。(極めて序盤を参照のこと)

被災者の若者には自衛隊入隊希望者が少なからず増えるのではないか。
被災者は時に綺麗に亡くなった、また破壊しつくされた我が子と会い、それでも見つけてくれた自衛隊にお礼を言い続け、子供の亡骸に「見つけてもらえて良かったね、生まれ変わったら自衛隊に入ろうね」と声をかけた親もいたという。
震災をきっかけに被災地で入隊は増えたという。阪神大震災でも同じ現象はあったということだ。
最初は冬だから遺体の維持という面で良かったが、時間が経ってから遺体も大分痛む。持てばパーツが取れ、或いは2倍に膨らんでいたと。服に死臭は取れないという。運良く体験した事はないが確かに腐った貝のにおいが付いた服ですらトラウマになるのだ。さらに貝を弄る工場を取っ払ったときの土壌のにおいたるや・・・(あまり体験したことがないであろう例えでピンとこなくて申し訳ないが)
夢でうなされ、食事では胃液がこみ上げ、あるいは泣きながら作業する自衛隊員も居たという。

(参考 自衛隊救援活動日誌 扶桑社など)

■問題となった粗末な食事

自衛隊の食事は粗末だった。ビタミン不足などで大量の口内炎が生まれたという。
震災時自衛隊から缶詰を分けて貰ってきていたが、福神漬けとたくあん。ビタミンもミネラルも感じない。しかも缶は結構重量と容積がある。なんというか、贅沢にスペースを取っている缶だ。

誓ってもいい。私がこの缶の容積で満たせる栄養素をデザインしろと言われたなら、この缶一つでタンパク質と炭水化物の量以外は満足する内容にしてみせる。
(もちろん、人間味や味・・・そういったものからは大きく後退するかも知れないが・・・)

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実際この福神漬け、たくあん。味がある。
いやほんとにおいしいのだ。甘みがなかなかに絶妙で、確かに食が進む。
たくあんに関してはかなり上手に漬かったものにさえ2歩リード。

自衛隊では被災者に配慮して暖かい食事などは避けたという。温かい食事は被災者へ・・・・
なるほど私も被災直後に自衛隊的な活動する事となったなら、被災者に見つからなくても暖かいものを食べる気にならないだろう。どうだろうか。
この気持ちはわかる。ここまで配慮していただける隊員に感謝したい。

もちろん、(対外的に)配慮した食事と、栄養が十分に行き渡らないのは別な話である。冷たくても成人男性に必要な栄養をデザインされた・・・十分なビタミン、ミネラル、必須アミノ酸、またタンパク質、必須脂肪酸、複合炭水化物を摂取するには十分なはずだ。
阪神大震災では比較的短時間で物資の供給が可能になったため、ここまでの大破壊は想定していなかったという事はあるかもしれない。
今後、非常時にもなるべく十分な栄養を取って、隊員が活動的に動けるようにしておくのは組織の義務であるのは間違いない。

寝不足は仕方がないのではないか。劣悪な環境、精神状態・・・・

自衛隊員はまず第一に真摯だった。ひたすらに優しかったのである。やり方などは確かにいろいろ考えつくだろう。しかしこと「実行する」となると、この状況では相手の心を解ろうとするという事以上に重要な要素があろうか?

自衛隊は世界で唯一、殺した数より救った数が多い軍隊と言われる。
人助けの訓練だけしていろ、と主張する者もいる。しかし最も過酷な戦争という状況を想定した訓練でなくては、優しさを実行するだけの力は持てない。

被災地で行われる君が代の演奏、国旗掲揚で不起立だった教師は居なくなっていたという。(*1)
(再起 – 宮嶋茂樹 KKベストセラーズ)

彼らの装備は、思いやりだった。

 

(*1)詳しく説明すると長い話になるので割愛しますが、
自衛隊に賛同しつつ、君が代・日の丸に反対という人はまずいません。

72 岩手県大船渡市 2

「よし、実家はここだ!ずいぶんと変わってしまったじゃない」

道路に流された家が道路に出てしまったため、津波から3日後に自衛隊の重機で砕かれどかされたと聞いている。

そもそもこの地を離れて当時もう20年以上経つわけだが、実家と呼ぶのは訳がある。
父が転勤という形で宮城に移った時、祖母にそのうち戻ってくると言っていたのだ。
だので、祖母に気を使うという意味もあって、ここ以外を実家と呼ぶことまかりならぬ、という決まりがあったわけだ。

「位牌が眠ってるはずだから、ちょっと見てみようか」
同乗者もちょっと見てみる。そもそも作業をしに来たわけではないので通常の服だ。
「怪我をするなよ クギを踏み抜いて大けがとかよくある話だぜ」

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がれきに取り付くようにぐるりと回わる。

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恐ろしい事に、前からだと1台にしか見えないトラックが2台もあった

「こりゃあ無理だぞ」
「間違いないな こりゃ無理だ」
がれきは分厚く重い。人間が乗っかったくらいでビクともしない。
ほぼ似たような物体であろう砂浜に落ちている流木、キリカブ一つでも掴みづらさが手伝って殺人的に重い。
さらに複雑に絡み合っている。閖上では

「おっと! 懐かしの数珠みっけ!」
道路脇に見覚えのある数珠を発見。これは昔仏壇にしまわれていてよく使った記憶がある。
他にもどこから流れ着いたかわからないビデオカメラ、ノートが何冊か道路脇に並べてあった。

ノートを開く。これは日記だ。恐らく、介護センターから派遣されてきた人の介護メモである。
身内3人の交代、またその派遣者という体制で介護を受けていた祖母の状況が緩やかに悪くなっていき、文章がだんだんと希望を持てない状況になっていく様が見て取れる。
とはいえ祖母が2010年に老衰で逝去する少し前に親族で顔を見せているし、この津波を見ずに逝ったと言う事で大往生である。

とはいえあまり良いことが書いてあるわけではない。仕事がなくなり滅入っている父にさらなる余計な感情を与えてしまうかも知れない。
ノートはこのままがれきの前で眠って貰うことにした。

 

その時は深く考えなかったが、何故ご丁寧に日記やらビデオカメラやら、また小さい数珠まで道路脇に並んでいたのだろうか。
そういえば相馬市もアルバムなどはしっかりとカゴにわけられていた。

これが後に不明者捜索だけではなく、がれき撤去に自衛隊がどれだけ気を使ったかを示していると気付くまでやや間が必要だった。

71 岩手県大船渡市 1

岩手県大船渡市。

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停止した大船渡線。横から見た列車の窓には気丈にも「一休み」と張ってあった。

本震災による津波の遡上高40.4m(岩手県宮古市)43.3m(宮城県女川町?)というあまり聞いたことがない数値が出るまで、確かな記録として遡上高38.2mという日本一を保持していた市だ。

3.11以前に日本で津波といえば大船渡であり、大船渡といえば津波である。
岩手県の様子をNHKの朝のニュースで中継する際大船渡の魚市場の天井が出ることは多いので、看板に38.2mと張っておけば少し人的被害を防げたかも知れない。

歌詞や動画がインターネットに全く見当たらなかったので記憶を辿ると確か大船渡音頭の二番はこうだ。
「みなと良い良い よりよせ きーよせ 波がくるくる 大船渡」

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岩手県大船渡市
約人口 40,000人
死者 340人
行方不明者 82人

「ああ・・・・・何が防波堤だよ 何が防潮堤だよ」

かもめの玉子 さいとう製菓 社長
さいとう製菓の社長は地震と共に津波を警戒し、即座に社員共に逃げている。(Youtube)

大船渡という地名は地味だが意外と知られている。
大して大きくないが湾内の水深があり、巨大船舶が入れるので三陸の中でも最重要湾と言われている。景色も高く評価されている。

大船渡市には湾港防波堤があったが破壊された。元々老朽化が進んでいたが、住民は建設当時から
「防波堤は津波の破壊力の前に無力」
「予算の使い道を探していたように見える」
という冷たい見方をしていた人も多い。完成した頃は38.2mの大津波経験者が生存していただろう。

この防波堤があれば津波は大丈夫、という意見はあまり聞いたことがない・・・

一方、大船渡市で昭和三陸大津波(28.7m)の経験をした祖母はいう。
「防波堤とかそういう問題ではない。そもそも津波が届くところに住んではならない」

所々で重量鉄骨もシュークリームのように丸まっている。現地民ですら元が何だったのか全くわからないほどだ。

 

大船渡には二つの小学校が的確な判断を下し、生徒が助かっている。

”越喜来小学校”は今回津波被害に遭ったが、生徒は全員無事だった。
海から約200mにあり、高台から遠い。

”従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。”
(www.asahi.com 3/29の記事より)

これは地理的に大幅に回り込む必要がある。

市議の一人の平田さんが津波の際最も危険な小学校だとして、回り込まずに高台へすぐ避難できる避難通路をかけてくれと2008年3月から訴え、約400万円の予算がおり2年半ごしで2011年12月、避難通路は完成した。

そのわずか数ヶ月後の震災時、生徒はその通路で全員逃げる。時間は大幅に短縮された。大船渡の第一波到達は0分、最大波到達は29分。(気象庁)

副校長も揺れが収まらないうちに避難を開始。「津波到達まで30分ないと考えると (これは凄い読みだ) 揺れが収まってからでは間に合わない、校舎が壊れることも考えた」。
また、予定より高い所に避難させた。

越喜来小学校は3階まで津波が到達。避難通路は役目を終えたように津波で流れていった。

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大船渡小学校はマニュアル通り校庭に逃げたが(大船渡小学校 通称”ダイショウ”はかなり高い位置にある)、ここにも津波が到達すると判断、大船渡中学校に避難するため校門より山手の”フェンスをよじ登り、1・2年生は教職員が持ち上げた”。全自動避難後、校庭は津波にのみ込まれた。

最大波到達まで29分という短い時間で避難出来たのは、必ずしも幸運ではない。
津波の町は確かに経験を活かしたのでは無いだろうか。

余談だが大船渡の防災無線・・これがまた、ピン♪ポン♪パン♪ポン♪ という緊張感の無い音だ。朝に大船渡魚市場の”市場が開きますよ!”という時に鳴る”ウィィィーーーーーン”という空襲警報のような音の方がそれっぽい。

参考
岩手日報 3/23
www.asahi.com 3/29(現在は消えている)

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大変失礼致しました。

70 岩手県陸前高田市

岩手県陸前高田市。
私はこの時点まで陸前高田市を壊滅としか聞いていない。映像ではなく実際に見るのは初めてだ。

まず陸前高田市は岩手県沿岸の最南端である。宮城県気仙沼市の上であるが、この県境から何となく性格も大人しくなってくる。宮城県は結構性格が荒っぽいという。わずかな距離の違いだが、岩手に入った方が仕事をしやすいとこぼす人も居る。
確かに大船渡に居ると妙に人当たりが柔らかく感じる。まあ、田舎である。景色的にも素晴らしいところだった。

陸前高田市は何度も当話には登場している。この震災まで歴史的にも何故か?陸前高田には苛烈な津波はきていない、と当時高田病院に入院中だった津波災害史研究家の山下文男氏も述べている。
(2011年12月13日に逝去)

「まもなく陸前高田 陸前高田でございます・・・・」
中心地に入る度に呟いていた言葉だ。

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「なんというかこれは・・・・・・・」
仙台湾周辺は確かにとてつもない破壊であったが、仙台市中心部が視界に入るため、まだ安心が出来る。
陸前高田市は山とかろうじて流れなかった大きな建築物(デパートや病院)以外が消滅している。そしてさらに南三陸町より広い。
芸能人が来ていた昼間の南三陸町と異なり、夕暮れが過ぎた頃の暗さの中、えんえんと終わりの無いがれきの隙間を進んで行く。
鳥も鳴かない時間帯で、車とすれ違うことも少ない。
ただひたすら道路だけを避けるがれきが迫るように大きく、しかし静かに伏せている。

海岸付近以外あまり隙間がないイメージのある街だったが・・・・

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岩手県陸前高田市
人口 24,246名
死者数 1,555名
行方不明者数 234名

(岩手県発表 人口は当時のもの)

「陸前高田市では・・・・
市街地のほぼ全てにあたる・・・
およそ5000世帯が津波で水没していることがわかりました・・・

陸前高田市の人口23000人のうち・・・
17000人の安否が確認出来ていません・・・・」

当時のラジオ

「日本百景と言われた高田松原広田海水浴場ですが・・・・道路ごと無い」
当時、最短の、そして大きい橋が柱数本を残して消滅しており、迂回してよくわからなかったが、砂浜も残っているのか怪しい。
ただ”奇跡の一本松”が立つだけだ。
そばの野球場は三日月のようにスタンドを残すのみで、海に還っているように見える。

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陸前高田市、奇跡の一本松。震災前は防風林として松がギッシリと生えていた

何年か前にポールアンカのCDを買った店も、どこにあるかわからない。
波は南三陸町同様3階立ての建物屋上まで流し、集合住宅の5階にも到達した。

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陸前高田市はしかし、市長があらゆる手段を用いて復興を果たそうと懸命である。
市長は震災で家族を失ったが、被災地の中で最も復興に意欲がある市長と言われている。
その手段に関して陸前高田市では様々な案を進めている。

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案に賛否はもちろんあれど、やる気があるのだ。そもそもこんな破壊を受けたのだ。例などあるわけはなく、やってみなきゃわからない。

一例としてがれきの処理について陸前高田市がプラントを作りたいと持ち出したところ、現行法では無理で、許可が出ても2年後であると門前払いを受けたという。つまり、ダメ、で終わりだ。

市長の要望を形にするはずの中枢である東京都はおろか、岩手県(県庁所在地の盛岡市は非常に深い内陸に存在する。岩手県は県で最も巨大な面積を誇り、地図で言うと中央のやや左上にある)すら別な国のような対応で、何かを使用とすればただ「今の法律では無理だ」というだけだという。
廃墟の前でVサインをし、写真を撮って帰っていく国会議員。
復興局は何故か被災地から遥かに遠い盛岡市。
(確かに新幹線ですぐに移動でき、東京へのアクセスは速い。何故東京に復興庁があるのかは謎だが・・)
距離が遠いという事は必要なものがないし、物理的・精神的な距離も離れる。

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(被災地)”必死に懇願” > 県”はあ 国に確認してください” > 国”はあ・・・県に確認してください” > 国・県 ”よくわからないですが、とにかくダメ”

たらい回しはまだマシかも知れない。もし垂直統合で、県を通さないと国に繋がらなかったらどうなるだろうか。
仕事で商品を作るとき、作りたい商品説明が上に伝わっていく過程が伝言ゲームになるのを想像して戴きたい。何が起こるか想像が容易なはずだ。
目の前にあるガソリンすら、省庁の所有権の違いで自衛隊員は触れてはならない、給油するなと連絡があったという。

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日本は災害が多い割にあまり経験を活かしていない(恐らく、戦争程度でしか被害が出ない中央東京に機能が一極集中しているため、頭でしか考えられず、経験が無いに等しい)。
学校で習った知識は、経験に対してかなり無価値である。

私は産業の保護だの正規の手続きだのこの「平時のガソリン給油手続き」を守らせることが、死にそうな人間を乗せた救急車の運転手に信号、時速20km制限、見晴らしのやたら良い箇所での一旦停止、飲酒運転検問をしっかりと守らせるように見えた。「はい緊急時走行は60kmまで。7kmオーバーだったねー。免許証出してー」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。これは愚者はマヌケな失敗をしないと学べない、と捉えがちだが、賢者もまた歴史がなくても経験で学べる事を意味する。
しかも「何に使うのかわからない勉強」がほとんどだった賢者気取りの都合の良い解釈はそこには入らない。賢者が歴史から学んだのか、愚者が歴史から学んだ気になったのか、また都合良く利用しただけなのかは一見というか、さっぱりわからない。致命的な結果が出るまで。
ストレートに言ってしまうと、福島原発の位置を昭和三陸大津波を経験した分数のかけ算が出来ない老人を連れてきて判断させ従っただけで、何千時間も何に使うのかわからないような勉強をして大学を出た連中の出した結論よりまともな結論が出たと考えている。

自転車を何十年勉強しても、運転したことがないならコケないわけがない。これは決して忘れないで欲しい。年を取ってくるとそこをサボって解った気になろうとする。
「あれ?これでうまくいかないはずがないんだけど」・・・残念ながら、どんなくだらない事でも現実はたいがい想像の数倍厳しい。

「”1000年に一度の災害”というなら、1000年に一度の規制緩和をして欲しい」

市長は復旧復興に大声を上げるのはあまり好ましくなかったと言うが、
「泣かない赤ちゃんにミルクはあげない」
という状況が出来ているという。

後に奇跡の一本松は枯死が確認された。

参考 被災地の本当の話をしよう ワニブックス
(異様な量の規制が詳しく書かれています)