一変して涼しい夏に

撮影班です。窓を開けているだけで十分に涼しい夏になってしまいました。
エアコンが悪者の時代のように語られる昨今、心強い味方になるのではないでしょうか。
しかしこの涼しさをもたらした自然現象は福島と新潟には厳しい結果になってしまったようです。

涼しそうです。

14 避難所

「まるで被災者扱いだね。焼けなかったらまた会おう。家」

fired

 

何も持って行かないのは消防団からの指示の他に、製油所はこの区域から結構遠いように見え、よほど派手に爆発してもここまで火が届かない気がするので家財は大丈夫だろう、と考えていたからだと思う。
私は逃げろと言われてるから逃げてるだけで、あまり危機感は無い。
「爆発ってすでにしてるんじゃないのか こっちまで来るとは思えない」
私の認識はそんな程度だ。

この日の火災は後に見る事が出来た当時の記事でマスコミ各社が誤報をしていた。
「仙台製油所、低温LPG爆発」
実際は製油所の低温LPG付近の火災と爆発である。低温LPGは爆発していない。
(この震災における誤報はかなり多く、現地で情報は非常に混乱していた)

真っ暗な道を小学校に向かう人々は主婦と子供、また坂を上がってくる大量の製油所の人々だ。なんだか(まるで遙か昔のように思えるが)昼間見た階段を上がってくる発電職員を思い出した。
必死に逃げる主婦とついて行く子供は、子供は最優先!という母親の強さを感じる。

成人男性や老人はあまり見ない。
多くの労働者は仙台港に働きに行っているため、まだ浸水で戻って来れていないのではないか。
また、老人はこういうときに逃げない人が多いようだ。
後にこのとき何をしていたかと聞くと、「おりゃー避難してねえ」と答えた人々は多かった。

さて避難所である6年間通った小学校に着くと、小型発電機の音がたくさん聞こえてきた。
たくさんの人がウロウロしている体育館前にはベニヤのついたてが立っており、それを安否確認の紙が逆立ったウロコのようにギッシリと埋め尽くしている。
この状況でもしかし体育館の外には電球が輝き、中には数台のストーブがたき火のように灯っている。
てっきり真っ暗で寒いと思っていた私は「なんて展開が速い、凄いな日本」と思ったが、どうも後に聞くとこの七ヶ浜町の避難所群は「最も恵まれた避難所たち」だったとのことだ。

しかし上空に残念な光景が広がっていた。そのときの自分の残念そうな表情はかなりのものだったと思う。
西が僅かに火災で赤いだけで、停電のせいか妙に綺麗な星空。
風が少ししかなく、空気に揺れるだけの小さい雪。

放射冷却。
こいつで固まった日の氷は硬くて、小学生の頃は良く滑った。
これから1月2月の寒さの長い夜が始まる。何人も死ぬだろう。