20 三途の川

自宅で余震を避け重い物が無い場所で、さらに爆風を避け窓に近づかないように寝ていると、11時も過ぎた頃だろうか。目覚まし代わりの町内放送が鳴る。
いつもならやまびこのような放送で聞き取りづらいのに妙に鮮明に聞こえた。

"製油所で火災が発生しています、大爆発が起きる可能性があります・・・避難してください・・・・"

動こうとすると頭が低体温症の影響でとても痛い。
こんな時水没した多賀城からタイミング良く帰ってきた母親は言う。
「大爆発だってよ ほら避難するよ」
「う、うーん・・・焼けて死ぬのも一興かもしれません」
と言うも、何となく起き上がってしまった。どうやら避難所から逃げられないらしい。

ちなみに”人はなぜ逃げ遅れるのか”によると、火事の際明らかに飛び降りたら死ぬと解っているのに飛び降りてしまうのは、パニックではなくこのような苦痛に対する生理的限界と言われる。要は楽になりたいと言うことだ。(ここでの”大爆発の恐れ”は差し迫った皮膚に感じるような脅威とまではいかないが)ごもっともな意見だとおもう。
死ぬより辛いことは容易に出会いうるということである。

暫く待つと、やはり水没した多賀城から帰ってきた父親も帰ってきた。

多くはまだ語らなかったが、聞けば両親共に勤め先はは津波により破壊され自動車も妙な場所に流されたという。

父親はずぶ濡れの服を着替えて言う。
「なんで(残った車に)ガソリンがこんなに無いんだ!」
やはりごもっともな意見である。このガソリン問題はこれから2週間このことを言われ続けるハメになる。

とはいえやや残ったガソリンがある自動車に何故か3つもある寝袋を積むと、小学校に向けて出発する。
今回は徒歩ではない。避難所にスペースは無いだろうということで、爆発範囲外の小学校に逃げ邪魔にならないところに自動車を止めそこで寝るという作戦になる。

途中両親の知人を見かけたため車を止める。
幼稚園小学校合わせて8年間歩いた通学路からの景色は見飽きていたが、通過するヘリコプターの音を添えたダークグレイの太い柱が新鮮すぎた。

「なんだか、変わっちまったよ」

 

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宮城県七ヶ浜町松ヶ浜より  3月12日

この光景を横で見る製油所の制服を着た中老年男性に話しかけてみた。
「いつ消えますかね」
「今は手が付けられません」
強い口調でまだ消火活動は不可能だと言う。

「昨日の爆発音で一見爆発は終わったかのように思えたのですが」
率直に思っていたことを聞く。

「とんでもない!製油所の油が爆発を起こしただけです。低温LPGタンクが爆発したら原爆並の破壊力です。ここから見える限りは吹き飛ぶか火の海でしょう」

(千葉県コスモ石油火災のタンクは低温では無いLPGタンク、仙台製油所にあるタンクは低温LPGとのことである。再度述べておくが、仙台港の製油所で低温LPGが爆発したとのメディア記事は誤報である)

「・・・そうですか」

空に伸びた黒い柱はあまりの大きさで、この丘から見る風景を広大に感じさせた。

トップ画像

晩夏のイメージとして、と言うとせいぜい夕暮れのセミ程度しかおもい浮かびません。
緑なら6月の新緑のほうが美しいですし、夏の海なら盛夏が良いでしょう。

 

ということで、津波被害を受けた地が草で覆われていく様をイメージにしました。
津波来て草木深し・・・・基礎がむき出しになっていた頃は街があったとすぐに解ったのですが、こうなってしまうとまるでただの野原だったかのようです。

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夏は子供の頃の夏休みの長さ、また祭りもたくさんあって大概良い思い出がたくさんつまっているのではないでしょうか。楽しくなる反面、過ぎ去ろうとしている夏にどこか寂しさを感じるでしょう。
こうして津波の記憶もゆっくりと忘れ去られていくのでしょうか。

津波浸水想定区域 ここまで。
奇しくもこの看板が破れたのは、R45のマークの箇所でした。

19 所感

山元町-045
駅前の光景とは思えない山元町。避難指示に住民の大半が従わなかったのが問題となった – 宮城県山元町 5月撮影

「住民にも行政にも油断があったと言われれば、返す言葉はない」

宮城県山元町町長 (時事通信社 2011 5 8より)

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以前の写真はwikipediaから 宮城県山元町坂元駅 2006

 

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駅舎は立て直したばかりのトイレをのこし、どこかへ行ってしまった ホームも一本無くなったように見える – 宮城県山元町山下駅 5月撮影

前回「油断は誰でもする。まず我が身を見よ」と言う説明に丸々1話費やした。
これから紹介する油断の例を噛みしめていただきたい。
何故この油断が生まれたのか、それは震災後の私が出会った実例で説明していきたいと思う。
ここで紹介するのはまず「油断」がうんだ悲劇である。誰がどう言おうが油断である。
しかしみんな油断するものである。

津波警報を聞いたみんなは急いでいるわけでもなく、まっすぐ避難はしていない。

ある人は言った。「もっていくものを準備している」

ある人は言った。「一旦逃げたけど忘れ物があった」

ある人は言った。「渋滞に巻き込まれた」

ある人は言った。「人を探している」

ある人は言った。「点呼を取っています」

ある人は言った。「津波はいままで通り小さいのしか来ない」

ある人は言った。「3mとあった。届かない場所に住んでいる」

ある人は言った。「さすがに今回は津波が来ると思うので海を見に行く」

ある人は言った。「みんな信じてくれないので、職員が一軒一軒回っています」

ある人は言った。「津波は三陸だけの特産で関係は無い」

最後の3つは信じがたいかも知れない。最初に紹介した時事通信社が述べている言葉を単純にしたもので、山元町の話である。
(私はこの油断を他人事だとは思わない。津波の教育を全く受けていないような人が頭で解るだろうからすぐ逃げるというほうが信じがたい)
しかもこの油断の一部には、積もりに積もった100年以上の歴史的背景をもつものもある。(それは後々”三陸”の項で説明する)

 

■油断、パニック、急げ
この3つのワードを結びつけるのはかなり難しい。しかし重要な繋がりがある。
(パニックは”恐怖による混乱”とする)
まず、「とにかく急いで避難」と最初の所感で述べた。
よく、「地震があっても冷静に、パニックになって逃げると将棋倒しなどが発生して悲惨な怪我をする」と聞いたことは無いだろうか。
人には、緊急時にパニックになったら・・・、という先入観が”強力に”存在する。(私にもあった)
しかし本震災に出会って警報が鳴ってからのみんなの落ち着きようを見てるとどうも変である。
確かに映画や漫画でしか警報で発生するパニックを見たことが無い。
大抵みんな冷静になったつもりでどっぷりと油断している。
おそらく当てはまるであろう、人は何故逃げ遅れるのか(広瀬弘忠 2004 集英社新書)、災害ユートピア(レベッカ ソルニット 2010 亜紀書房) 両紙の言葉を借りると、一般的な認識の・・・

「パニックは神話である」

人が災害発生時に、特に警報だけでパニックになって逃げまどう事はまず無い。
くだらないことに人がパニックを起こすのは地震や津波よりも部屋に紛れ込んだ「ゴキブリ」である。パニック自体は確かに存在する。
しかし地震や津波の警報、また実際に出会っても早い段階では恐怖はあっても混乱など起きなかった。

災害を起こした地球もあまりの人間ののほほんっぷりに大層驚いているに違いない。そもそも地震や津波なんてものはパニックになってでも逃げるべきものなのだ。
災害ユートピアではこう書く。
「もしパニックというのが人々が大変な恐怖に駆られていることを意味するなら、おそらくそれは災害の発生時に起きることとしては極めて正しい理解だろう。(中略)実際、災害が発生したときには(中略)恐怖を感じるべきだ。一方で、怖がっていると正しい行動がとれないとは言い切れないのだ」

同書はむしろハリケーン・カトリーナの際「群衆がパニックを起こしていると思い込んだ警官や軍が秩序を持った群衆を射殺した」と言う。
パニックを起こすのはむしろ、民衆がパニックになっているという思い込みに怯える災害から遠い場所で情報を得ている人物の類やエリートの類であると述べている。
みんながパニックになるから不安を与えるな、正しい情報を隠せ・・・気休めを言え・・・危険であろうから射殺しろ・・・
これこそ恐怖による混乱、パニックそのものである、と言う事である。

確かに私に震災時に来た安否確認メールにはパニックそのものの乱筆のものがあった。そしてそれらの人物は震災をテレビで見ただけだった。
同じ被災者からのメールは極めて冷静である。

さて東北という首都から遠い地では現実感がわかないだろう。
もう一例を上げよう。長期振動とされる本地震は東京の高層ビル群に強く作用するという。その状況ではどうだったのだろうか。
東京オペラシティタワーの高層階(相手側社名があるのであえてこの表現にさせ
ていただくが、このビルは非常に高いビルである)に居た当社の人物は言う。

「明らかに巨大な地震だった。揺れが一段落してもだれもが上を見回すだけで逃げない。私は”不味いですよね”という人物と一緒に、非常階段で震災時会社に指定されているビルの外の集合場所にさっさと降りていった。まともに逃げたのは二人だけでは無いかというほどだ」

実は震災時のビルからの正しい避難というものは非常に複雑かつ曖昧である。耐震性、会社の防災対策、揺れ等に左右されるとしか言いようがない。
(ちなみに家や職場にそもそも一つでも倒れる大きいまたは重い物がある時点で防災対策はされていないと考えられる)
ここで言いたいのは、みんなの周りに将棋倒し等の怪我に発展しそうなパニックはあっただろうかということである。おそらく無かったと思う。
パニックとは、まるで逃げるのを面倒がった人が後付けのいいわけのために災害に当てはめたような気さえするのである。

津波は単純である。早く高い所に。大爆発も単純である。早く遠い所に。
おそらく津波が実際に見えて、さらにあまりに巨大であると実感してからようやくパニックになったように動き出すような油断した人がほとんどである。常に恐怖を感じて急げるようにしておいたほうが良いということなのだ。

最後に油断しなかった例をまとめておく。

津波警報を聞いたみんなはもう居ない。

ある人は言った。「近くの高台は調べてありました」

ある人は言った。「車はまた買えばいいでしょう」

ある人は言った。「アルバムや通帳は常にリュックサックにまとめてあります」

ある人は言った。「家族も逃げていると信頼できます」

ある人は言った。「小中学生だけでも自主避難が出来ます」

ある人は言った。「津波の高さに思い込みはありません」

ある人は言った。「とりあえず15m以上の防潮堤を作って貰えるまで頼み込みました」

ある人は言った。「遙か昔に家ごと引っ越してあります」

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電車と同じで、津波も待っていればどこかに連れて行ってくれるようだ。
待たなければ連れて行かれないだろう。

18 所感

「安心は慢心」 (産経新聞 2011 4/8より)

■「大爆発」という単語でも無反応な人々

本文中で述べたとおり、消防団が大爆発の可能性と避難指示を出した後の避難行動中に子連れの母、構内で待避命令が出た(これも確認済みである)製油所職員しか見ていない。
映画やドラマで「大爆発」という単語を市民が聞いたとき、人々はパニックを起こし悲鳴を上げながら逃げる。車は衝突する。
そんなイメージがあったと思う。なにせ今回は本物の爆発音のおまけ付きである。

しかし必死になって逃げるような人は少なくとも私の見る限りではいなかった。
そもそも、人は油断する生き物である。

「津波が(陸前高田の)病院の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようとしたんです(中略)と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治二十九年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が」
――我が国津波研究の第一人者がね。
(佐野眞一 津波と原発 講談社 2011)

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県立高田病院 – 岩手県 陸前高田市

「ここなら安全だと思っていたのだが」
「想像を遙かに超えていた」
「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」
「津波は怖い」

(岩手日報 2011 3/17より)

以上は山下文男氏のインタビューや発言から。

山下文男 – 岩手県大船渡市出身。津波災害研究者。「津波てんでんこ」(てんでんこは三陸に伝わる”自分の命は自分の責任 親兄弟もバラバラに逃げろ”の意味)を広めた事で有名。当日県立高田病院の4階で被災。4階からさらに2メートル近く水位が上がる中カーテンにしがみついて生還する。

この所感は「油断しなければ」「何も学んでいない」と油断を切り捨てるためのものではない。私はそもそも人間は(また多くの生き物は)油断するために生まれてきた生物であるとしか思えないからだ。

たとえば災害から華麗に逃げ切ってみせる、と思ったなら1000年に一度呼ばわりされる大津波より、誰でも知っている日常の災害から身を守るところから考えて見よう。
私が思うに日常の災害に油断していない人、というのは例えば最低限以下の3つの条件を満たす。

1.ブラック企業送りやリストラ対策に日々努力精進していること
これらは津波より現実的な災害である。

2.普段から生活習慣病対策が運動が十分で、かつ食事が栄養学・タイミングの面で理想的で、かつ健康診断を怠らないこと
生活習慣病はやはり四階まで上がってくる津波よりも現実的で、かなり悲惨な災害である。

3.人から恨みを買わないよう、悪口陰口を言わず、人徳と慈愛に溢れた生活をしていること
人災は最悪の災害である。

たとえば「ワキが甘い」という言葉はいかにも油断している人を刺す言葉だが、3を出来ていない人に該当すると思う。

そこいらを見回すだけで深刻な結果をもたらす災害からも目を閉じ耳を塞ぐ人間がほとんどであるということが解る。しかしこんな生活はストレスが溜まりそうだ、と感じたのでは無いだろうか。

草食動物のように寝る時まで立っているほど油断しないで生活することを考えて見て欲しい。すぐストレスが過剰になると思う。宮城県らしい表現をすれば、草食動物のカモシカもガケに居るときは油断している。
人は(生物は)安全だと思える場所で油断する、つまり安心することにより危険への警戒 ―不安― というストレスから解放される。

人は食事がある、病気や怪我を治す、と言うように安心出来る社会を発達させてきた。
安心とはそれだけ魅力的な存在なのではないか。安心出来る社会、とは油断できる社会である。つまり、「安全だと思える社会」を作ったということだ。どこまでやればいいのかよくわからない「安全」ではなく、「安心」という目的に到達するために発達してきたような人間が油断するのは自然なことではないだろうか。

しかし安心とは安全と違いただの感情なのだ。

沿岸に住んでいても、津波を知らなければ安心出来る。
しかし津波を知っていても安心するために安全だと思い込むのである。

ここまで高く来た記録はないから安全だ。
こんなに速く到達した記録はないから安全だ。
ここは海が見えないから安全だ。
毎回数十センチだから安全だ。

「ここなら ”安全だ” と思っていたのだが」

終盆より

今年は終戦ものと被災ものが多かった気がします。

東北の観光地もまずまず人が多く、世界遺産に認定された平泉、もともと人気が高かった蔵王山頂、島々が津波から守り抜いた松島のみならず陸前高田、南三陸町といった被災地も静かな観光地となってきている気がします。

(不届きなことに国道にすらRikuzentaka”D”aという青看板がありますが、正式にはRikuzentaka”T”aです)

沿岸部も瓦礫の撤去がすすみ、基礎だけが残るようになってきました。
その基礎も雑草が隠し、元から街などないただの草原だったかのように思えてきます。
陸前高田はその上にピラミッドのように巨大な瓦礫の山が林立しはじめました。

震災当時の破滅的な光景ではなくなりましたが、パンクに注意していただきたいものです。へんな突起物が出ています。

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17 所感

終わってみれば悔いだけ残る
油断という名の選択肢

東日本大震災-106
背負った子供は無事だったのだろうか – 宮城県七ヶ浜町 5月

ここまでの所感を述べる。

「誰か助けてくれ」ではなく「あんた、助けてくれ」

非常に重要な事なので先に述べておく。
この話では私が具体的な目線で、要するに名指しを受けて助けを求められている状況に遭遇している。これが「誰かどけてくれ」だった場合、ご想像通り、少なくともすぐには場所は空かなかっただろう。
本震災でも美談はたくさん聞いたと思う。人間悪い人ばかりではない。助けられるなら困っている人間を助けたいと思っている人は多い。そんな人に”指名”すると”立候補”を求めるプレッシャーも無くなりそうだ。

この避難所ではみんな座ったり横になっているから声を出し続ければいずれ誰かが場所を譲ってくれるかも知れないが、早歩きで道行く人々が相手となると状況はさらに厳しくなるだろう。

これも同じ状況を説明している箇所が(また・・・)広瀬弘忠氏の「人は何故逃げ遅れるのか」に書いてある。
わかりやすく要約する。

”救援者を指定しないと助けを求められたみんなは「他の人はどう動くか、動かないなら俺も動かない」「危なそうだから近寄らない」などの普段のモードで考える結果、傍観者となる。救援者を指定すると、指定された人物は他の無駄なことを一切考える余地が無くなり、つまり非常用のモードに切り替わり救援に入る その救援者は、時に自らの命を捨てる事になるまで助けに応じてくれる”

とのことだ。例では海外でのケースが採り上げられており、「あんた、助けてくれ」はどこでも通用することを表す。
経験してみると助けを求められたときの「ん?僕」と言う反応は・・・確かにモードが切り替わった感じがするのである。

ちなみに、暖かい場所を奪ったら絶対に離さないというケースも避難所で散見された。
東北の冬はあまりに寒い。私はこれを責める気にはならない。
ただ助けを求める相手は少しは選んだ方がいいかもしれないと言う事だ。

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16 避難所

ガン、と嫌な音が鳴る。
具体的に言うと、人間が重力に負けて倒れステンレスの水場に頭をぶつけたとすぐ解る音である。
ストーブの光で輝く瞳が肉食動物の気配を感じ取った草食動物のように一斉にそちらを向く。

音の主は体調不良のようで、さらにたった今怪我をしてしまったようだ。
この災害で私がけが人を目撃したのは初めてである。避難所に入ってからもこのときまで一人も見ていない。
負傷者が死者の数倍に達する地震災害と違い、津波災害はけが人が少ない。怪我を許さない水死が大半を締める。
そのため、けが人に対応するための装備をしてきた県外の救急隊が面食らったと言う話もあるほどだ。

看護経験がありそうな女性に抱えられて高齢の女性が中に運び込まれてくる。

ちょうど一人分のスペースに横になっていた私に向かって、
「すいません、ちょっとの間こちらの場所を貸していただけませんか」
高齢者の引っ張り込んできた女性が言う。

(ん?僕?そう、僕ね 確かに僕は多分この避難所でもトップクラスに寒さに強いからね そりゃ見る目あるね)

単に近いだけだろうが、私は無言でさっさと立ち上がって場所を譲った。周囲は魚類と言うべきか、は虫類と言うべきか、そんな無感情な視線を私に向ける。

それを受けて
(立ち上がるポーズが普通すぎたのかな ほんとに「確かに寒さに強いからね そりゃ見る目あるね」とか言えば良かったかな)
とくだらない事を考える。

しかし、場所を譲るのは絶対ちょっとじゃ済まないだろう。ここから動けるようになるにはそれなりの怪我や体調不良の治療が出来る”目的地”が解ったときではないか。

「お名前を教えてくださいT?Tさん?すぐ救急車が来ますからね!お連れはいらっしゃいますか?」

救急車・・・・

安心させるための言葉で、希望というわらにすがらせるためだろうが
あの津波と火災を見た私にとって、より絶望を
(ばあさん、救急車はまず来れないぞ。そしてここはこの避難所全員が通うトイレという避けられない寒気が来る。私が出来るのはここまでだ。 グッドラック。)
これからこの女性が耐える辛い時間を思うと、目は細まり、眉間にしわが寄った。

「あら、濡れているじゃない。ちょっと外に出させて貰うわよ」
さっさと濡れた毛布を片付けると、足を伸ばして眠れるスペースが生まれた。
女性は合理的、かつ、タフだ。私がどけると我慢強くないな、と言われるだろうが・・・

お連れの”夫”が来たが、悲しむでも驚くでも焦るでも無く、かろうじて立てている抜け殻のような状態である。

さてスペースを失った私は東京ドームの出入り口のように、案外トイレのドアそばより外の方が風が少なくて暖かいのでは無いかと思って外に出たが

!!?!?

29~30時頃だろうか。あまりに寒く言葉が出ずによじれるだけだった。Yシャツ1枚でスキー場に行ったときより明らかに寒い。
これは不味い。入り口付近をウロウロしていると、
「おにぎりが欲しいのかい?」
と男性に声をかけられる。
「い、いや それはいいんですがね」
私の外見上の脂肪はあまり多くない。それでも体脂肪率10%前後は有り、それは70000キロカロリーに達し、余計なことをしたとしても20日間の水分と手に入りやすい塩分だけでの生存を保障している。
去年”たまたま”減量を行う機会があり、それは自分の生存期間にかなり強い根拠を与えてくれる。
そしてこの町は多賀城自衛隊駐屯地が近い。救援は速いはずだ。
おにぎりのような食事は食べ慣れたものを摂らないと不安に思う層、または高齢者や子供などに与えられるべきだ。

しかし一番の理由は、”大きいおじさん”がおにぎりを子供の居る避難所で腹が減ったからと受け取るという、これは私の望んだ大人の姿では無く、そのように自分は(まだ)出来ていない。

話しかけられた男性に聞きたいことを聞いてみた。
「実は火災収まったとかそういった(都合のいい)情報は」
「いや?解らないのです 火事ですか?避難指示が出ているのですか?」
一蹴である。

朝までこの気温でこの服。耐えたとしても低体温症で寝込むと言った事になりかねない。
何かいい方法は・・・

避難所の周りを見渡すと、体育館につきものの2階の観戦用廊下が目に入る。
(これはもしや)
2階に上がる。数人居るだけでガラガラである。しかも暖房が上に上がってきて暖かい。
イェルサレムはあったのである。
(※エルサレム、キリスト教等の聖地だが、あるいは約束の地、天国を意味する)

床はやはり硬いが、気温が高い。
ゆっくり寝れそうだ。

なんだかずいぶん長い1日だったような気がする。
お休みなさい。

 

 

1時間ほどしただろうか。避難所を担当している一人のような人から声をかけられる。

「起きてください」
「え?」
「ここ(2階)は閉めます」
「ほ、ほほう なるほど 閉めるね なるほどね」
イェルサレムは無かった。

さっさと立ち上がると、とても頭がガンガンする。常にかき氷を食べている感覚。
低体温症の症状だ。

とはいえ、倒れた女性のそばに無理矢理割り込む気にはならない。
外には朝日が出ていた。家に帰ることにする。私には―焼けるかも知れないが、家があるだけ、そこに居ろという声かも知れない・・・

2階をさっさと早歩きしていると、明るくなったからか、校長を名乗った女性が挨拶をしている。
「左手前のブルーシートに座っている子供たちを見てください。まだ両親と連絡が取れていない子供たちです。みんなで一緒に乗り切りましょう!」

 

ブルーシートの面積は広い。

15 避難所

避難所となっている松ヶ浜小学校体育館の中は薄暗く、人がギッシリと詰まっていた。

外と違い、明かりはストーブ数台。
その赤い光に照らされた人のが闇に浮かんでいる。

人の入れるスキマを探していると、ちょうどカドに何故か一人がギリギリ横になれるスペースがある。
ここにお邪魔をする事にした。
そして何故こんなスペースが空いているのかすぐに解った。

津波前の当日朝の七ヶ浜に最も近い塩竃市の気温は最低-4度前後で津波後不明。
風速は3から4m。湿度50%。 体感温度は-11度から-15度に達する事を意味する。(今聞くだけで寒い)

トイレにつながるドアがすぐそばにあり、しょっちゅうこのドアが開く。直線上に体育館の出口がある。
重く冷たい風がそのたびに真っ先にここに命中する。

この通気により、避難所でここが一番寒いと言っても決して過言ではない気すらする。 これは確かに空く。

あまり高くないスキー場ではYシャツ一枚で行動可能な私にとっても異様に寒い。
もっと厚着してくりゃよかった、と考えても遅いのである。
しかしいつか経験した箱根駅伝応援の復路出発に学ランで待機するよりは寒くない。
(こんな寒い場所を割り当ててくれて光栄だね!他のヤツなら死んじゃうだろ!)
そんなくだらない事を考えて奮起していると、親と毛布にくるまった子供が「寒いね」、と言う。親が「うん」、と言う。確かに寒い。 突然
「閉めろ!さみいんだよ!」
と怒号が響く。 トイレに向かうドアはたいして高価ではない引き戸のため時に開けっ放しになるのだ。
(良く言った!)と言う顔多数。
女性が開けっ放しにしたドアを慌てて閉める。

一方、ストーブはそばが熱すぎてドーナツ状に開いている。適度な距離をとってぼーっとする人や寝る人がいる。これも格差とか言い出す人が居るのだろうか。

姿勢を変えようとすると、どういうわけかずぶ濡れで冷え切った毛布が触れた。油断した体制で居るとこっちまで浸みてくる。
(なんでこんなものがあるんだ。外にあるべきものじゃ無いのか)
一瞬外へどけようと考えたがしかし、もしかしたら”とても大事なもの”を包んできたのかも知れないと思うようになった。
私の今居る場所は ―今は正確に知らないが― 海側にある裏口から物を運び込みやすい場所だった。
( ここは最初から空いてなかったのか )
そう考えると、この毛布も外にどける気にはならなかった。

姿勢を落ち着けてゆっくりしているとずっと妙なチャイムが鳴り響いているのに気付く。避難所の各所に設置されているラジオから鳴っている緊急地震速報の音だ。当初、間抜けなことに携帯のメール着信かと思っていたが、この歳になるまでテレビやラジオで聞いたことが無かったのである。
チャイムはずっと鳴っている。この音しかラジオから聞けないのでは無いか・・・そのくらいに。

震度4以上62回 ――東北地方で障害を起こしていない震度計だけでの3月11日-3月12日に起きた地震の観測結果。 平成23年7月20日 気象庁地震火山部発表。

ときおり、天井からカラカラカラ・・・・と音が鳴るようになった。
明かりで照らされる体育館の天井を支える大量の鉄骨はどう見ても少々の揺れで壊れるようには見えない。
実際はカマボコ状の天井に少々積もった雪がストーブの熱に溶け、滑って音が鳴っているだけだと考えられる。
しかし終わらない緊急地震速報に不安を憶えていたのだろう。何の音だ?崩れるのか?と天井を見る人も居る。

ラジオがチャイムの合間に言う。
”・・・・荒浜では200体から300体の遺体が発見されたと県警が発表しました・・・”

昼間に話した床屋の息子が
「荒浜で100人以上の遺体が見つかったとか」
と言っていたのを思いだした。想像できないが、どうも本当らしい。そしてこの数は足腰に難がある人間の数では無い。

「津波で健康な人も死ぬのか・・・・そうか・・・・・」
私は前も述べたとおり、この日まで今時津波で多くの死者が出ることはまず無いだろう、と思っていた。

3月11日は25時を回る。