東日本大震災 2

2011年3月11日

私はこの日、約2週間の小さい仕事の終えるべき作業を完全に終え一段落していた。
15:00までの作業予定だったが、14:00に作業が終わったため仕事を切り上げ軽いエクササイズを始めていたところである。

当社においてトレーニングをしない者は居ない。最初は気が進まない者でも30代が近づくにつれ勝手にトレーニングを始めていた。この会社は食事やトレーニングの正しい知識は筋トレ歴10年を越える会社の連中が勝手に指導してくれるというわけだ。
私のトレーニング歴も15年あり、体格は一般的な成人男性より発達していた。

「トレーニングはどのくらい、どのタイミングですればいいのですか」

よくこんな内容の相談を受ける。

「体調が悪いとかなかったら、やれるときにやってしまいましょう」

いつもこういう返事をしていた。
トレーニングは出来るときに出来るだけしてしまう。
たとえば次の瞬間、仕事で何かが起こるかもしれない。
1秒後に、身内に大きな事が起こるかもしれない。

長い言い訳になってしまったが、この日は久しぶりに自主残業から解放された日であり、やれるときにやってしまえで少し速い時間に自宅にあるトレーニングコーナーに入ったというわけだ。仕事をサボったわけではない。

14:40過ぎた頃であろうか。
ウォームアップが終わった頃だ。

揺れを感じた。
地震の大きさはだいたい最初の揺れ-初期微動-で見当が付くと思う。
これは結構大きい地震だ。

部屋に有るあらゆる器具や本棚がきしみ始めた。

普段ならこのあたりで揺れは小さくなり始める。しかしこの地震はどのくらいのものか見当が付かなかった。
揺れが終わらない。

私は地震があったとき、 -行為の是非はさておき- 頑丈な建物や安全な平地に居るときその場から動かずに地震の様子を見るのが習性になっている。

この日のトレーニングは幸い”ハンドグリッパー”(スポーツショップでよく見る、握るだけの単純なトレーニング器具)から始まっており、地震の影響でダンベルやバーベルのような数十キロから数百キロの重い物が落ちてくる可能性はない。

揺れは強くなるばかりで、家具転倒防止の突っ張り棒がギシギシという不気味な音から激しい音に変わり、バツンバツンと断末魔を上げて「打ち破られた」。本棚が一気に倒れ始める。

[ 不明 (14:45?) 岩手県釜石市 第1波到達 ]

とにかく長い。何分目だろうか。次第に大きくなる揺れは物が多いトレーニング部屋では私に「危険な揺れだ」と判断させるに十分だった。
部屋の中は2日前に逃げ道の整理を終えていたものの、廊下は本棚が倒れている。片足ずつピョンピョンと本に足を突っ込みは抜き、突っ込みは抜きの脱出となった。漫画やら小説やら、積雪30cmといったところであろうか。

――なんてこった。これ片付けるのか。

物が少ない客室に逃げた頃、揺れは緩やかになった。
気がつくと手にカメラを持っている。2日前にいつでも出動できるように整備しておいたものだ。

確かどこかでこんな事を聞いた事がある。

「緊急事態において、カメラは持っている価値のあるものだ。
生命、またそれを救うための手段の次に」

この言葉にはなんだかよく分からないが従ってしまう重さがあった。突き動かされてしまったのだろう。意味はやはりよく分からない。

名誉とかはこういうとき重荷になるのか、砕け散った額縁のガラスも散っている。いつの間にか踵に小さい破片が刺さっていた。さっさと抜き取って部屋の様子を見回る。
仕事を終えてミュージックプレイヤーとなっていたパソコンのディスプレイは真っ暗である。
2~3日は停電だろうか。しばらくゆっくりするのもいいかもしれないな。
しかしガラス、電気使う掃除機が無いと吸いづらいじゃない・・・
仕方が無いな、とため息を付いた。

[ 14:46頃 停電 ] (これは我々から”情報”を奪った)
[ 不明 地震から0分 岩手県大船渡市 第1波到達 ]
[ 不明 地震から0分 宮城県石巻市 第1波到達 ]
[ 不明 宮城県南三陸町 第1波到達 ]
[ 不明 宮城県気仙沼市 第1波到達 ]
[ 不明 岩手県陸前高田市 第1波到達 ]
[ 不明 宮城県仙台市  第1波到達 ]

家をよく見回るとこの時点で普段の地震ではない光景があった。
電池だけ綺麗に抜き取られ、14:46で止まった壁掛け時計。
14:46から秒針が動きはするものの上がりきらない置き時計。

[ 14:48 地震から2分 岩手県宮古市 第1波到達 ]

窓から見えるお向かいの瓦がやけに落ちていた。

※参考 気象庁3/12-13発表資料

東日本大震災 1

※こちらの連載は会社活動とは一切関係ありません。ただ代表の私が経験したことを記載していくだけのコーナーです。

2011年3月9日 午前11時

私はいつものようにパソコンに向かって作業中、かなり大きい揺れを感じた。
イスに腰掛けたままの姿勢で揺れの様子を見る。

様子を見れるくらいにはこの家は揺れに強い。鉄筋である。
私の家族はシロアリに家を一度潰されていたため、その際鉄筋に建て替えたのだ。
――木は美しいが弱い。
”いつか欲しかった日本家屋”を見るたび父親は言う。

「あっぶな 停電ギリギリか」

揺れが収まった頃にディスプレイに向かって独り言をつぶやく。
パソコンを使う仕事をやっていれば停電に怯える事はしょっちゅうある。
しかし最近は特に地震が多く感じる。

宮城県に住んでいると、ちょっと歳を食った人なら誰もが
「宮城県沖地震はそろそろ来るぞ」
という。
1978年に数十名の死者を出した地震で、私(30歳)が小学校の頃は、先生によく聞かされたものだった。

「あのときはすごい揺れでなあ ズルズルとヒザ擦ったんだ」

子供の頃からズルズルって表現にずっと引っかかっていた。多分、もうちょっと長い地震だったんだろう。
宮城県沖地震はこんなに小さいはずがないだろうし。

「そろそろ本震が来るかもしれないな」

耐震用の突っ張り棒などを締め直した。
特にモノが散らばったわけではないが、いろいろな家具やトレーニング機材、パソコン周りなどを綺麗に片付けておくことにした。
もし本震が来たときに逃げやすくなるだろう。
私には素人なりの予備知識があった。
「前震でM8の大地震が来たとしても、本震の威力は減ったりしない」

会社で使っているカメラをしっかりと棚の奥にしまった。カメラの高級なレンズは落とすと修理代が高い。
大した高さじゃなくても平気で6万円7万円と取られたりするものだ。

レンズは「標準ズーム」という何に使うにも便利なズームレンズをセットしておくことにする。
これは有事にすぐ対応出来るためで、儀式のようなものだった。
今まで別に役に立ったことはない。

(標準ズーム)

窓から見えるお向かいの瓦が数枚落ちていた。

ウェブ魚拓のメンテナンス完了について

技術担当です。

5/23の22:45頃から5/24の02:00頃にかけて、ウェブ魚拓を停止してデータベースのメンテナンス作業を行っておりましたが、無事に完了いたしました。

これからはバックアップ処理の負荷が下がり、主に深夜のサーバのつながりが良くなるかと思います。

作業中はサービスが利用できずご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。

応援

代表の新沼です。
会社としてでは全くないお話になりますが、被災地にある石巻専修大学入学式の応援協力に呼ばれましたので行って参ります。
何かお役に立てればと思います。


石巻専修大学は震災の影響で、まだ入学式は行えていません。
このダメージを糧とし、建学の精神 「社会に対する報恩奉仕」 を行える学生になって欲しいと思ってやみません。

連載 東日本大震災 -はじめに


– いつか来る。 いつでも来る。 必ず来る。 来なくても来る。

わずかな間でいいので、想像してみてください。

あなたが友達のみんなと一緒に海に遊びに来ています。
座っているあなたは「長い揺れ」を感じました。泳いでいる友達は気づいていないようです。

突然「大津波警報」の呼びかけが町内放送で行われはじめました。

そこは津波避難場所の看板もたくさんある町です。
揺れの小ささに疑問を持ちながらも、連日の東日本大震災の報道を見て、もちろんあなたは避難しようとします。

あなたが避難した場所はどのようなところか、
避難するまで何分かかったか、
頭に思い浮かべてください。

写真は被災した宮城県志津川の集合住宅の正面です。
津波避難ビルという大きい看板が防災意識の高さを物語っています。

集合住宅を海側から望んでいます。
4階に漁に使う道具が絡まっています。

1枚目の4階の入り口にもよく見るとスプレーで調査状況がマークされています。




想像した自分の行動はどのようなものでしたか。

友達のみんなは素直に逃げるという判断に従いましたか。
重いパラソルなどの荷物をまとめるのが先でしたか。逃げるのが先でしたか。
渋滞に捕まりませんでしたか。

4階建ての建物の高さを思い出してください。

逃げた場所は、どんなところでしたか。
津波を見ようと、中途半端な高台に逃げませんでしたか。
海から遠いだけで低いところではなかったですか。
避難場所は本当に津波に対して避難場所になりましたか。
想像した自分の行動に悔いが残った場合、何をすればよかったでしょうか。
※明治三陸大津波
津波の遡上高海抜 38.2m
最大震度 「3」

今回の東日本大震災 岩手県宮古市の例
津波の遡上高海抜 39.8m
津波の到達時刻 35分
津波の時速 「115km」

東京タワー 哀悼の光

震災から2ヶ月、東京タワーのライトアップが再開されました。

再開から3日間は消費電力を押さえた「哀悼の光」という東日本大震災による犠牲を悼んだものとなっていました。


少しずつ東京は普段の姿を取り戻していきます。

とても落ち着いたイメージです。祈りは少しずつ被災地に届いていくでしょう。

サービスの機能更新が滞りがちなのをお詫び申し上げます

現在様々な理由により、開発リソースがなかなか確保できず、サービスの更新が滞りがちですのをスタッフ一同心よりお詫び申し上げます。
可能な限り機能的なコンテンツ以外の更新はしていきたいと思います。
7月中旬から下旬より開発リソースを確保できる予定ですので、今しばらくお待ちくださるようお願い申し上げます。

桜の季節が東北でも終わりに近づいてきました

東北の桜の季節がついに終わりに近づいてきました。
余震・自粛ラッシュでお客さんも少なかったかもしれません。

次は5月末から新緑の季節です。
お勧めは青森ですと八甲田 奥入瀬、 秋田県ですと 元滝伏流水、岩手県ですと七折の滝でしょうか。
南東北の新緑はあまり詳しくなくて申し訳ありません・・・・
奥入瀬・八甲田の緑は写真におさまってないので、
それ以外を紹介していきたいと思います。

被災地周辺の倒産件数がどんどん増えていっているといいます。
これから被災地の倒産の現状も明らかになっていくでしょう。
遊びに来てくださる方、津波に関係なくまだ道路はボコボコしていますので十分にご注意を!

東日本大震災について

東日本大震災で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。

このブログで週1程度、代表やスタッフの東日本大震災時の経験を述べていく連載を開始していきたいと思います。

現在お金や物資協力のボランティアや自衛隊、警察、消防隊などのご協力を手厚く受けていまずが、
これは犠牲があってから行われる行為です。
言い方は悪いですが、「壊れてから、死んでから来る」のです。
人類にとっては「取り返しがつく失敗」かもしれませんが、個人にとってはしてはならない「取り返しのつかない失敗」です。
犠牲が払われる前にどのように準備するかはその地域の常日頃の努力がものを言うと考えています。

昨年往生した祖母が引っ越すたびに繰り返し「そこは津波が来るところか?」と警告していました。
津波が届く場所の家を守るという義務を感じつつも、津波の恐ろしさを繰り返し伝えるという相反する義務を果たしていたように感じます。

当社がインフラ以外の被害が出ずにすんだのはその警告と、
私が出身の大船渡より送られてくる親の厄年の解除記念アルバムにチリ地震津波の被害の写真が載っていたのを覚えており、
「津波がこないところ」という条件を意識したことに他なりません。(それでもかなり近くまで破壊されました)

今度は私どもが津波の恐怖を伝える番になりました。

復興への希望や、地域を盛り上げていく運動とはかけ離れたものとなるかもしれませんが、
津波がいかに恐ろしいものかを意識していただく一石になると幸いです。


(画像は大船渡の母方の生家。前のトラックには菊の花が添えられていました)